月刊ライフビジョン | メディア批評

不都合な事実は、記憶から締め出す政治の現実

高井潔司

 相変わらずコロナ禍対策とそれに伴う五輪開催への政府の迷走が続いている。菅政権は五輪開催にこだわるが故にコロナ対策とりわけワクチン接種の実施で、場当たり、泥縄対策に終始し、不安は解消するどころか、増すばかりだ。こちらもイライラが昂じてしまい、感染者数が増えると、「やっぱりそうでしょう」と、変な話、感染者数の増加を期待する気分になっている。

 ここまで問題を錯綜させている背景には、コロナや五輪の政治問題化、権益化がある。秋に予定される衆院選と自民党総裁選をにらみ、その対策を成功させ、政権への支持を高めようという思惑がギラギラしている。この問題を論じれば論じるほど、ますますイライラが昂じるだけなので、専門家の提言と天皇の意思表明をめぐる政権の反応についてのみ簡単に触れておこう。あまりにもあきれた反応なのに、マスコミがそれほど問題視しなかった。

 尾身茂政府感染症対策分科会会長は国会で、五輪の開催に関し「このパンデミックの中で五輪開催は普通ない」と発言した。これに対し、丸川珠代五輪相は「我々はスポーツの持つ力を信じて今までやってきた。全く別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらい」と語り、政権のブレーンでもある竹中平蔵パソナグループ会長(元総務相)は「分科会がオリンピックのことを決めるわけじゃないのに、明らかに越権」とまで述べ政権を援護した。

 そもそも尾身会長の発言は単に専門家としての意見を述べたに過ぎない。当然、“政治屋”の丸川氏から見れば、「別の地平から見た」意見であろう。別の地平の意見を聞くために専門家による分科会をわざわざ設置しているのだ。私が丸川氏を政治屋というのは、専門的な見地からの意見を聞くためではなく、専門家を自分たちの意見を追認するだけの‟ゴム印“の役割と見なしているからだ。本来、政治家とは、様々な立場の意見に耳を傾け、それを調整し、政策として練り上げていく仕事をする集団である。政治を私物化し、異なる意見を排除するから、「別の地平」などという言葉が出てくる。

 また尾身発言を“越権行為”と評した竹中コメントは、元慶応大学教授とも思えない非科学的な発言だ。20年程前に、ある研究論文発表会で竹中氏のコメントを聞いたことがある。専門外の研究発表にも、的確に問題点を指摘するシャープな竹中コメントに感心し、世の中にはすごい学者がいるものだと驚いたものだった。

 しかし、総務大臣を経験し、いまやパソナ会長を務める竹中氏の今回のコメントは、‟政商“の臭いさえする。越権って、どんな権限を越えたというのだろう。尾身氏は、意見を述べただけで、分科会の会長の権限を越えて何かを決定したわけではない。私が想像するに、尾身発言は、政府の様々な発注、とりわけコロナ対策などを受注し、莫大な利益を挙げているパソナの会長にとって、その”権益“を脅かすような”越権行為“発言だったのだろう。長くなるので、尾身発言問題がここまで。

 もう一つは宮内庁長官が定例会見で、「オリンピックをめぐる情勢につきまして、天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を、大変ご心配されておられます」と述べた点をめぐって。マスコミの反応は賛否両論併記の中立的報道。「天皇の政治問題発言は憲法を侵す」などいう憲法学者の意見まで紹介していた。そこまで取り上げるほどの発言かといぶかっていたが、首相も官房長官も「この発言は官房長官の意見」と切り捨てたことで、ますます疑念がたかまった。

 五輪開催を前に感染状況を心配しているのは、天皇だけでなく、首相も共産党党首も、われわれ国民も同様である。政治問題でも何でもない。しかし、政権をはじめ、野党も含め、政治屋さんたちが五輪を政治問題化させた結果、天皇の単なる意思表明まで政治問題だと感じさせてしまうのだ。ご心配発言を政治問題だと言ったら、天皇のあらゆる言動が政治問題ということになろう。冒頭の感染者の増加を期待してしまう私の妄想同様、政府の世論無視、独善的な無策のコロナ対策、五輪政策が無用な錯覚を引き起こしてしまうのだ。政治屋やマスコミの過剰反応は、それぞれコロナと五輪で精神的に病んでいるからではないか。

 6月はイギリスの景勝地、コーンフォールでG7先進国サミットが開かれた。以前は、日本の新聞社も大取材団を送り込み、お祭り気分で華々しい報道を繰り広げたものだ。しかし、今回は何とも寂しい報道ぶりだった。それは日本のマスコミにとって主役の菅首相の存在感があまりにも薄いためだった。前首相の醜いパーフォーマンスもどうかと思ったが、テレビの画面を見る限り、一人寂しく、各国首脳の後ろを所在無げにとぼとぼ歩く姿ばかりが目立った。オブザーバーで参加した韓国大統領のはしゃぐ姿と対照的だった。

 読売の報道では「各国首脳は、民主主義や人権などの価値観に基づく結束を再確認し、新型コロナウイルス禍からの回復に向けた連携で一致した。首脳宣言では台湾問題に初めて言及し、中国に厳しい認識を示した」(15日付一面)という。それを受けた3面スキャナー欄では、「『中露の脅威』共有」、「民主主義国と『二極』鮮明」と解説している。ただし、見出しでも「米欧、温度差残す」と書いて逃げを打っている。

 では日本の立場はどうか。「菅首相はバイデン氏と足並みをそろえ、中国への強硬路線を主導した」と書かれてあったが、その情報源はどこにも書かれていない。会議の席にいたわけでもなく、おそらく同行した外務省幹部からの都合の良いリークであろう。「主導」というより、アメリカに引きずられたというのが正直のところだろう。米欧の温度差は中国との経済関係の距離の違いにあると解説するが、それなら中国と最も経済関係の深い日本はもっとアメリカと温度差があっていいはず。反中国を主導するなら、しっかり、対中国政策を論議し、明確な戦略を示してからにしてほしい。

 しかも、中露が専制主義で、G7は民主主義国というが、アメリカも日本も本当に民主主義を貫いているのか、大きな疑問である。各国で起きている民主化運動は、専制主義との間で苦戦し、民主主義陣営をその支援策と難民の受け入れ対策をしっかり準備しておく必要がある。難民を受け入れない国が、きれい事でスローガンにするのは止めた方がいい。

 そもそも米中の対立は、政治体制というよりも、経済覇権をめぐる対立の方が色濃い。経済対立で、各国が加勢するわけには行かないから、政治体制の問題を強調しているだけなのだ。それに引きずられる日本の姿勢は危険極まりない。

 バイデン大統領は帰途、スイスでプーチン・ロシア大統領と首脳会談を行い、戦略的対話の開始に合意したという。ロシアとは対話のチャンネルを開き、中露との二正面対峙を避けたのだという。それなら、「中露の脅威共有」という解説に疑問符が付く。さらに言えば、中国とロシアのどちらが民主主義国にとって脅威かと言えば、ウクライナ問題を見ても、ロシアは直接、軍事力を行使して領土の拡張を図った。プーチン大統領の政敵や批判報道をする記者に対し、直接生命を奪う挙に出ているのはロシアである。その国と対話ができて、中国と対話ができないとは一体なぜなのか?なぜ、そのようなダブルスタンダードのアメリカに追随してしまうのか?本気で外交に取り組んでいるのか、はなはだ疑問である。

 G7の開催地となったコーンウォールは、ノーベル文学賞を受賞したイギリスの日系人作家、カズオ・イシグロの『日の名残り』(早川書房)の舞台でもある。この小説はイギリスの上流社会の館の執事の回想録である。もともと小説など読まない私だが、定年後、いろんなジャンルの読み物にも挑戦してみようと手に取った。その小説ですごく印象的だったくだりを紹介しよう。

 この館の主人は、外交に造詣が深く、国際協調、平和を求めて有力者を組織して民間の運動を進める人物である。第一次世界大戦後、過大な賠償で苦しむ敗戦国ドイツを支援するため、公式な会議に向けて、欧米各国の有力者を館に招き、国際的な世論形成のための会合を開く。会合ではドイツの負担軽減を主張する館の主人と対立するフランス代表との調整が大きな焦点となるが、アメリカ代表が舞台裏でその対立を煽ろうとする。その暗躍ぶりが明るみに出て、フランス代表はフェアプレー精神を発揮して歩み寄りを見せる。これに対してアメリカ代表はこう言って開き直る。

 「ここにおられる皆さんは、まことに申し訳ないが、ナイーブな夢想家にすぎない。・・・たとえば、われわれを招待してくださったこのお屋敷の主人。彼はいったい何者でありましょうか。たしかに紳士だ。それに異議をとなえる人は、ここにはおりますまい。古典的な英国紳士だ。上品で正直で、善意に満ちている。だが、しょせんアマチュアにすぎない」。

 「今日の国際問題は、もはやアマチュア紳士の手に負えるものではなくなっている。私としては、ヨーロッパが早くそのことに気づいてほしいと願っているのですよ。・・・諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはおわかりか? 高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。・・・今回の会議にしたところで、この二日間はたわごとのオンパレードだった。善意から発してはいるが、ナイーブなたわごとばかりだ。ヨーロッパがいま必要としているものは専門家なのです。皆さん、大問題を手際よく処理してくれるプロこそが必要なのです」

 この小説は、エリートによる政治から大衆政治へと移り変わっていく時代を背景にしている。さて、館の主人はこれに対し、こう反論して会合を締めくくる。

 「私にはあなたが‟プロ“という言葉で何を意味しておられるか、だいたいの見当はついております。それは、虚偽や権謀術数で自分の言い分を押し通す人のことではありませんか? 世界に善や正義が行き渡るのを見たいという高尚な望みより、自分の貪欲や利権から物事の優先順位を決める人のことではありませんか? もし、それがあなたの言われる‟プロ”なら、私はここではっきり、プロはいらない、とお断り申し上げましょう」

 G7に出席したわが菅首相はどんな立ち位置なんだろうか。内政においてはこれほどのプロはいないだろうが、外交においてはアマチュアでもプロでもない。だから手持ち無沙汰に各国首脳の後をとぼとぼ歩くしかない。

 もう一篇、最近読んだ小説から菅首相の言動をコメントしてみたい。『オリンピックの身代金』(奥田英明 講談社文庫)という昭和の東京五輪を舞台にしたエンターテインメント小説だ。非常に楽しめる上質のエンターテインメント小説で、吉川英治賞も受賞している。秋田出身の東大大学院生が、父親違いの土木作業員の兄を五輪の建設現場で亡くし、自身も兄に代わって建設現場に入り、その過酷な労働現場を体験しながら、爆破犯として復讐を図っていくというストーリーだ。

 首相就任後、初の党首討論で、菅首相は問われてもいないのに、昭和東京五輪の思い出を語り、東洋の魔女やヘーシンクの活躍を呑気に振り返った。首相は秋田の貧しい農家の出身という触れ込みだが、本当にそうなら、あの東京五輪で秋田の農民がどれだけ出稼ぎに動員されて、過酷な労働を強いられ、華やかな五輪の舞台裏で秋田をはじめ東北の農民が犠牲になったか、多少なりとも聞いているはずである。

 トータルな犠牲者の統計は持ち合わせていないが、NHKスペシャルで放送された『東京ブラックホールⅡ 破壊と創造の1964年』を基に書き下ろされた『1964年 東京ブラックホール』(貴志謙介、NHK出版)は、その一端を記録している。

 「1964年1月15日、ビルの高層化が解禁された。この年の建設現場では、1日に10人以上の割合で転落事故が起き、死者が出ていた。たとえ助かっても、重傷を負うものが1万8千人もいる。工事の見積もりには、安全に配慮するための経費が計上されていたが、元請けの予算に組み込まれていても、下請けへ、そして孫請けへ仕事が流れるうちに消えていく。理不尽きわまる『ピンハネ構造』が幅を利かせていた」

 「突貫工事の現場では、長時間の重労働はあたりまえで、その結果、過労による心臓麻痺と脳貧血で、労働者がバタバタと倒れた。先にふれたように、1964年の夏は水飢饉が発生し、蛇口から水が出るのは1日9時間だけだったため、脱水症状で倒れた労働者は数知れない。1日800円程度の安い賃金から、さらに飯代、布団代などが差し引かれる。酒も市価の2倍の値段で売りつけられる。いわゆる『タコ部屋』、あるいは『暴力飯場』も野放しになっていた」

 「過酷な労働に耐え切れず、多くの労働者がヒロポンを打った。覚せい剤である。だが中毒になれば、稼ぎがヒロポンに消える。やがて健康を失い、廃人となる」

 「出稼ぎ農民や離農者が増えるにつれ、農村社会そのものが音を立てて崩れはじめた。五輪がらみの建設ブームが一段落した9月、朝日新聞にこんな記事が載った。『“空前の農民大移動”“五輪出かせぎ”総決算』。記事から長期にわたる過酷な労働に心身をすり減らしたにもかかわらず、業者にだまされて賃金をもらえなかった労働者が多かったことがわかる。不払いを訴えたケースは確認でいただけで、その年1月から半年の間に秋田県で151件、山形県で117件あったという」

 同書にはまだまだ紹介したい悲惨なデータや事故のケースが記録されているが、ここまでとしよう。小説『オリンピックの身代金』はそうした飯場の窮状を見事に蘇らせている。私は当時、都内の高校に入学したばかりだったが、それでもこうした五輪のもう一つの側面を覚えている。

 自身にとって不都合な事実は無視し、記憶から締め出す。この政治屋たちが説く「民主主義」では、残念ながら「専制主義」を打ち破ることはできないだろう。


 高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。