月刊ライフビジョン | 論 壇

「危機」という問題の本質

奥井禮喜
いまは危機の時代か

 コロナウイルスで世界が大騒動している最中だから、誰でも、危機だと考えるだろう。昨年からの1年半に、世界の2億人近くが感染し、400万人近くが亡くなった。300日余で開発されたワクチンによって、感染拡大防止に明かりが差し込んでいるが、まだまだ予断を許さない。ワクチン接種で万事解決すると信じ込んでいるからであり、科学的に証明・検証されてはいない。

 巷間、危機の時代とか転換期という言葉が登場するのは珍しくない。個人の受け止め方は千差万別であるが、危機や転換期という言葉が日常化する傾向もある。日常化して、馴れてしまえば、危機ではない。危機というなら、その本質を明晰・判明にしなければならない。情緒的次元に留まるのは危険だ。

 一般的に、危機は外からもたらされると考えやすい。なるほどコロナや、天変地異などは、人々からすれば降ってわいた危機である。危機は、人々が認識するから危機なのであって、認識しなければ危機にはならない。

 こんなことは当たり前だが、日本の場合、コロナ騒動に関しては、危機が危機として認識されなかった形跡がある。

 以前も紹介したが、人間の行動(B)は主体(P)と環境(S)の関数である。B=f(P,S)において、コロナウイルス騒動の場合、危機はSである。感染症の危機を、Pがしかるべく認識していれば、ただちに3T体制を確立するのが定石である。3Tとは、Testing・Tracking・Tracingで、感染者を発見し、感染経路を調べ、接触者を追跡することである。

 日本においては、3T体制が確立され十分に機能したとはいえない。もちろん保健所など関係者が大変な努力をされたことは知っている。保健所の体制が不十分だということは早々にわかったが、その体制整備に政府が大いに尽力したという話は聞かない。PCR検査器を1000台程度購入できる予算で、各世帯にマスクを2枚ずつ配布した。狙いが感染拡大防止ではなく、政治家の人気拡大にあった。人気拡大が感染拡大防止につながると考えるところに、感染問題に関する危機意識が極めて希薄であったことがわかる。

 日本においては諸外国と比較して、相対的に感染者拡大が少なかったが、それが災いして、行政が安直感から抜け出せないことと重なり、自粛頼みに終始してきたことも危機感がない例証であろうし、結局、他国で開発してもらったワクチンと自粛頼みしか対策がないにもかかわらず、一方で、人々が密集しやすい政策を平然と打ち出す。GoToキャンペーンや五輪開催に典型的なように、委細構わず、感染拡大防止と矛盾した政策を打ち出すのも右に同じで、危機感がない。

 これらは、危機が危機として認識されないという意味において、1つの危機がそれだけで終わらず、周辺に連鎖反応を起こして、いわゆる「人災」を拡大する構図である。危機が危機としてきちんと認識されないことは、これこそ最大の危機というべきである。いまのコロナ騒動も大変であるが、――本当の危機とは、危機が危機として認識されないことである――という仮説が成立する蓋然性は高いであろう。

『危機の二十年』をテキストとして

 そこで、E・H・カー(1890~1980)『危機の二十年』をテキストとして考えてみる。同書は、1919年から1939年の、第一次世界大戦終了から第二次世界大戦が開始するまでの戦間期について分析・研究した本である。

 それによると、1920年代は大戦終了後の解放感と反省に支配されて、(政治的リーダーも含めて)人々が理想主義的夢見心地にあった様子が読み取れる。国際連盟が発足して、国家間紛争の解決も可能になるはずであった。しかし、実際は次の戦争に向かって進んでいた。まさしく、危機の時代であった。

 夢見心地というのは、理想に向かって歩んでいる――正と悪が区分できる限り、悪に対して正の影響力を行使することによって、世界平和が維持できる――と、世界のリーダーたちが信じていたからである。日本へもデモクラシーの潮流が流れ込んできたが、体制側はもっぱら帝国主義的侵略路線を突き進んでいた。

 欧米のリーダーたちはデモクラシーの信奉者で、欧米の人々の世論は平和志向であった。合理的に話せば世論が正しい判断をする。リーダーたちは、世論を掌握すれば、正は悪に勝利するはずであると確信していた。しかし、このような一般的原則と現実は同じではないことが、後に現実化する。

 国際連盟の根本的な思想は、世論は必ず勝つのである。なぜなら世論は理性の声なのである。各国政府の支配者たちが、自分たちの権力志向から自己中心的な取引をするのではなく、世界の圧倒的な非権力者である純真な民衆の思想によって導かれるはずであった。これはまさに夢見心地ではあるが、予想もしなかった長期的・大規模の欧州大戦に対する反省心が支配していたからこそであって、これ自体は非難するべきではない。

 1920年、国際連盟最初の総会で、英国代表セシル卿(1864~1958)は、「われわれが持っている最強の武器は、経済的・軍事的・物理的武器ではなく、世論という名の武器である」と演説した。もちろん、これは哲学であっても、政策ではない。さらに、31年9月10日の国際連盟総会では、同氏が「今日ほど戦争が起こりそうもない時代は、世界史のどこにもなかった」と演説した。ところがどっこい——

 同9月18日、日本軍は満州事変を引き起こした。日本軍の暴走を止める世論は存在しなかった。当時の日本だけではない、世論は理性の声たるべきであるとしても、現実にそうではない。「満蒙は日本の生命線」であるから、日本がそれを確実に手中にしないかぎり、日本は危機である。危機であるから、戦争(事変)を作り出し、37年支那事変(日中戦争)へ、南方進出から直ぐ41年太平洋戦争に突っ込んでしまった。

 第一次世界大戦以後、欧米において、デモクラシーの勝利が称えられたのは事実である。それは戦勝国の気分であり、敗戦国ドイツやイタリアでは、話せばわかるのではなく、力こそ最大の問題解決力だという思想が支配していた。やがてファシズムが大きく育つのである。

 戦勝国においては、デモクラシーの建前論とは別に、「利益調和説」が幅を利かせていた。いわく、個人(国)が利益を追求することは共同体(世界)の利益の追求と等しいという、A・スミス(1723~1790)『国富論』以来の思想である。

 利益調和説が成り立つのは、極めて親和的コミュニティがあって、メンバーが稼ぐことがコミュニティの富を豊かにする場合である。コミュニティは固く結束しており、富は外部から獲得される。パイがつねに拡大を続けており、メンバーは直接・間接的に恩恵を被る。誰か個人が巨大な富を蓄えても、それが彼の尽力によるものであり、メンバーの獲得物を奪うのでないかぎり、誰も不平不満は語らない。いや、誰かがコミュニティの富を拡大させるのだから、文句を言ってはバチが当たるという気風である。

 とくに、アメリカでは、「経済的に正しいことはすべて道義的にも正しい。よい経済(儲けること)と道義的によい行動との間に対立などあるはずがない」。自動車で大儲けしたH・フォード(1863~1947)の言葉である。これは、第二次世界大戦後、イギリスに代わって世界の覇権を掌握したアメリカ的思潮へとつながっていった。

 しかし、各国で構成される世界を考えると、とても親和的コミュニティとはいえない。各国を単位として世界を考えると、いずれか、あるいは複数の国が稼ぎまくるとしても、その他の国に恩恵が必然的に行き渡ることはない。この場合は、国同士の力による奪い合いだと見られるのが普通である。

 事実第二次世界大戦は、第一次世界大戦から引き続いた繁栄する戦勝国と、容易に再建できない敗戦国間の再度の戦争であり、アジアにおいては新興日本が独自の植民地獲得戦争から世界大戦の一角を占めた。

利益調和の考え方は妥当でない

 1つの国の中でも利益調和は成り立たない。誰もが自分のために努力する(自助)結果として、社会全体が発展するならば、いちいち共助などを強調しなくてもよい。共助とは社会的仕組みであり、助け合いである。

 社会というものは、自助が社会的に有効に作用するからこそ成立するのである。落ちこぼれたら、公助で救済するという考え方は、本来の政治ではない。共助の仕組みが優れていれば、落ちこぼれは少ないはずである。つまり、政治は、自助が共助(仕組み)と分かちがたく結びついている状態をめざすのであって、落ちこぼれが問題になるのは、自助と共助が分裂している。つまり、政治の貧困化を意味している。これが世界の格差問題の根源である。

 資本主義が生まれたばかりの時期、それはレッセ・フェール(自由放任)と同義語であった。資本家は大儲けして有頂天であった。その結果は、富める者と困窮する者が極端に分離し、いわゆる階級闘争を生み出した。利益調和が成り立たないのは、最初から分かっていたのである。

 時代が下って1970年代、ニクソン・ショック、石油ショックと続き、多くの先進国がスタグフレーションに悩んだ。その解決策として登場したのが、後に新自由主義といわれた供給サイド経済であり、新自由主義とは、資本主義創生期の自由放任の20世紀版に過ぎなかった。

 それ以降、富める者と困窮する者の格差は拡大の一途をたどった。アメリカで、大統領トランプが登場したのは、動きがとれないほど拡大した格差社会に最大の原因がある。しかし、トランプ氏が取り組んだのは、格差問題解決ではなく、それどころか経済的格差に加えて人種格差問題を重ねたのである。

 トランプ氏は、民主主義で選ばれた大統領であるが、彼は白人主義という枠内におけるナショナリズムを押し出した。国内における格差問題が白人低所得層を困窮に追い込んだにもかかわらず、それを無視して、白人を星条旗の下に情緒的に結束させるために狂奔した。格差問題に、社会的分断が加わった。もちろん、希代のアジテーターであるトランプ氏の才覚がおおいに発揮された。白人至上主義を掲げて、それが大成功したために、トランプ氏が大統領職を去らねばならないというアイロニーを生んだのも記憶に新しい。

 見過ごせないのは、トランプ氏が挙国一致戦略として打ち出したのは、国内における格差問題が原因であるにもかかわらず、個人間や階級間の問題ではなく、国家間の不平等に転嫁したのである。アメリカは1強大国であるから、その誇りは白人間には十分に浸透している。格差が国内問題であるにもかかわらず、人々(白人)の視線を国外に向けさせた。

 これは国の指導者にとっては、至極好都合である。アメリカ支配に陰りが出ているとはいえ、2国間問題とすれば、アメリカは圧倒的優位である。問題は外から来るというわけだ。外国のせいであれば、国内の不満を自分が浴びなくて済む。もちろん、外敵! に対して、人々がやっつけろと叫ぶのは巧みに計算されたガス抜きとしての効果があった。

 国内の不満に乗じて、外国を敵視させ、国論の一本化を画策するのが、ナショナリズムであり、ファシズムである。人々がナショナリズムに走り込むのは、国内問題を解決する努力をせず、外へ向かって不満を放散させることに過ぎない。とくにアメリカは世界秩序を形成してきた1強大国であるにもかかわらず、自分で国際秩序を破壊しようとした。トランプ流「アメリカ第一主義」は、ファシズムの1形態であった。

 だからバイデン氏が国際秩序の復活に努力しているのは妥当である。ただし、トランプ氏が破壊した以前に戻すだけであれば、依然として国内の格差問題は手付かずの段階にある。G7においてバイデン氏がデモクラシーを旗幟として中国叩きを推進するだけであれば、今度はG7段階においてトランプ氏がおこなったことを拡大するだけであり、世界を分割することになる。だから、賛成はできない。

 そもそも民主主義は、「人間の尊厳=基本的人権の尊重」に立脚する。国家が人々の生命・人権を左右するような、とりわけ戦争は断固拒否する。民主主義は理念として平和主義と同一不可分である。

 軍事力は産業・経済と密着している。軍産複合化が深化することは、人間を軍事資源化する。殺戮・破壊の目的のために産業を動員することは、すべての資源の膨大な無駄遣いである。それは地球環境の破壊力であり。人間精神を堕落させる。21世紀的冷戦の枠組みを形成することは、危機を深化させ、ますます問題を複雑化する愚挙である。

 デモクラシーを掲げて世界分割を至当とするのは、羊頭狗肉の典型であり、偽デモクラットの仕業である。偽デモクラットは、デモクラットを自称しつつ、ファシズム勢力に与している。極めてナンセンス、かつ危険極まりない気風が論壇を支配している。

世界秩序をめぐる危機

 世界秩序は、1強大国の権勢を軸として形成されてきた。ただし、これは仮説であり、そのような仮説を作ったのは強大国を軸とした支配国であろう。第一次世界大戦までは大英帝国の覇権時代(パックス・ブリタニカ)であり、それ以後はアメリカによる世界秩序形成の時代(パックス・アメリカーナ)であった。

 強大国の力は、まずは経済力であり、経済力を駆使した軍事力と、対外宣伝力である。最近、盛んに中国の脅威(軍事力)が喧伝される。世界の軍事費をみると、全体1兆9810億ドル(213兆円)・GDPの2.4%。国別では、① アメリカ7780億ドル、② 中国2520億ドル、③ インド729億ドル、④ ロシア617億ドル、⑤ イギリス592億ドル、⑥ サウジアラビア575億ドル、⑦ ドイツ528億ドル、⑧ フランス527億ドル、⑨ 日本491億ドル、⑩ 韓国457億ドルである。アメリカは全体の39%、中国は13%、アメリカの軍事費は中国の3倍である。(ストックホルム国際平和研究所SIPRI)

 単純に軍事費の大きさを脅威というならば、アメリカは中国の3倍の脅威であるが、こちらは安心の基盤である。中国を敵視するから、とにかく軍事費が膨張すれば脅威が膨張するわけだ。

 1強大国の権勢が世界秩序を形成している前提で、その権勢に陰りが出るのは、相対的に並存する新たな権勢の大国が登場するときである。

 経済力や軍事力を強大化するのは、当事国にすれば自分たちの努力の結晶である。それは、新興する大国=中国もまた同様に考える。しかも、かつて100年余にわたって他国の侵略によって苦い体験があるのだから、気合が入っている。先行した大国が、それを好まず、なんとしても従来通りの覇権を維持しようと画策する時、危機が発生する。

 そもそも、世界秩序が1国の権勢に拠らず、大国から小国までが、道義的に納得できる秩序であれば、危機にはならない。つまり、世界秩序が1強大国の恣意的に扱われているほど、危機の度合いが深刻になる。

ナショナリズムによる危機

 G7が始まった1970年代、G7の世界GDPシェアは80%だった。いまは40%である。7か国が相対的に力を落としたのだが、客観的には世界各国の格差が均されたのだから、決して悪いことではない。

 G7のアイデンティティはいかにあるべきか? これは難しい課題である。デモクラシーのクラブだという説もある。そうであるならば、G7は、世界分割の動きと目されるような言動・行動を取ってはならない。

 もし、G7が21世紀的冷戦の旗を振るならば、デモクラシー勢力を騙りつつ、世界各国にナショナリズムやファシズムを拡散する役割を果たしてしまう。デモクラシーのクラブたるためには、道が険しかろうとも、第二次世界大戦の戦勝国クラブとしての国連を、21世紀的に発展させねばならない。

 デモクラシーを掲げつつ、世界中に武器を売りまくるなどは、悪辣なペテン師の仕業である。世界各国が人権尊重をするように喧伝するのはよろしい。ならば、「隗より始めよ」である。軍拡から軍縮への行動を起こさねばならない。「お前がやらないから、俺もやらない」という本質は、もともとやる気がないのに過ぎない。自分の本心を隠して、他者の攻撃にばかり熱を上げるのは、道義的に許されない。もちろん、政治は道義そのものではないかもしれないが、道義を無視すれば政治を支配するのはヤクザの論理である。

 ある国際政治学者は「(西側的)国際協調の再建が世界の分断を招いてしまう。そんな世界に私たちは生きている」と道学者的コメントを書いた。なるほど、それは現実である。しかし、それをなぞって慨嘆(?)してみせるだけであれば、学者というよりも雑巾テレビのコメンテーターの解説に過ぎない。理性の何たるかを示し、理性の拡散を図る――これが、学者たるデモクラットの矜持ではなかろうか。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人