論 考

明治は遠くなっていない

 昔、安倍晋太郎氏が息子を評価して、「言い分けの天才だ」と語った。言い分けの意味は、① ものごとの筋道を説明する、②(転じて)過ちを謝するために事情・理由を説明する、③ 言葉を使い分ける――と『広辞苑』にはある。

 親の欲目があったのか、成長して亡くなった親の年齢に近づいた息子は、言い分けの天才というよりも「言い抜けの天才」というほうが妥当である。いわく、うまく言いつくろってその場を切り抜ける。言い逃れるの意味だ。

 実際はうまく言いつくろえず、頭隠して尻隠さずというべきだが、たまたま巨大与党に乗っかっているから失脚せずに生きながらえている。

 横田滋氏が亡くなった。安倍氏は「断腸の思い」とコメントしたが、断腸の思いであったのは横田氏であって、安倍氏ではない(と、わたしには見える)。

 今度は緑のタヌキ女史の経歴詐称や、意地悪の性格が話題を呼んでいる。ご本人がどんな「言い分け」をするか。たぶん、そりゃ聞こえませぬという作戦であろう。

 作家・内田魯庵(1868~1929)は、舌鋒鋭く指摘した。いわく、

 ――議会は、国家があるのを知って国民があるのを忘れている。国民を代表することの真の意味を知らない。

 政治家は、政治でメシを食うのだから良心の切り売りをする。

 政党は、烏合の衆で、パーティというよりモッブ(mob 徒党)である。

 気の利いたものは官僚に、残った滓、無学・無資本・無才能・無分別のナイナイ尽くしが苦し紛れに始めたのが政治運動である――

 これは明治時代後半の話であるが、あまり昔のことに思えないのが遺憾だ。

 いま、なによりも政治家に求められるのは「正直」である。正しく言葉を使っていただきたい。