月刊ライフビジョン | 論 壇

軍事力が防衛の唯一の方法という幻想

奥井禮喜

北朝鮮の行動

 北朝鮮のロケット打ち上げ騒動が収まらない。ご近所としては懐手して、子どもは花火が好きだと呵々大笑していればよろしいというわけにもいかない。いままで被害が発生しなかったのは、もっけの幸いであろう。

 ところで、わが国は現実には懐手の呵々大笑と変わらぬ態度を取り続けている。新聞社説を見れば、「北ICBM発射 日米韓の連携強化への挑戦だ」(11/19読売)、「北朝鮮が再びICBM 緊張感高める暴走許されぬ」(11/19毎日)など、見出しは多少異なるが内容は毎度ほとんど変わらない。毎度政府が、日米韓の結束を固めて対処するとコメントするのだから、新聞も書きようがない。

 結束を固めるの事例として、韓国は軍事演習をおこなったり、こちらも海へ向かって何発かぶっ放してみたりで、「目には目を、歯には歯を」の、戦争ごっこがくり返される。問題解決などまるでオツムにないわけだ。

 そもそも話し合いを求めるのにロケットを打ち上げるのが甚だしくトンチンカンである。瀬戸際外交という言葉もあるが、どう見ても国民生活が決定的に不如意な北朝鮮が、派手な散財をくり返すのが不思議である。ハッカー人材が豊富であるとか、武器輸出で稼いでいるとか、ちらちら報道される内容を見ただけでは、さっぱりわからない。これをどう読み解くべきか。

 国対国のそれぞれの思惑、メンツがあるとしても、問題解決の動きがまったく見えない。そのうち打ち上げる余裕がなくなると踏んで、好きにやらせていると解釈するべきだろうか。しかし、プーチンの前例もある。自分の物語しかない独裁者が手詰まりになれば暴発する危険性がある。瀬戸際外交ではなく、自爆外交と呼ぶべき事態に近づいていると言えなくもない。

 北朝鮮が、軍事力が国家安全保持の手段と考えているのは確かだろう。ただし、軍事力が生活物資を生み出すわけはない。そうなら、いまごろは相当豊かな国になっているだろうが、守るべき国民が飢えと隣り合わせである。

 果たして、国民が独裁者に共感し納得しているだろうか。独裁体制に逆らえないから誰も沈黙を守って忠誠を演技しているだけだろう。

 自爆外交から、かりに南北戦争へ踏み出すようなことがあった場合、みんなが本気で戦うだろうか。もしそうなら、絶対的貧困こそが愛国心の源泉という理屈になる。それでは、愛国心とはマゾヒズム(被虐趣味)にきわめて近い。

 むしろ、世界の歴史的事実が示すように、それが北朝鮮の民衆革命を引き起こす可能性もある。北朝鮮の人々の我慢強さを思い、韓国の躍進ぶりを見ると、独裁者の単細胞的無知蒙昧がひときわ目立つ。

常軌を逸した世界

 北朝鮮の事情は格別不思議であるが、ところで、それを生み出したのは世界であって、本質的には世界がそれと無関係だとは言えない。なにしろ、防衛といえば軍事力、国の安全保障といえば、やはり軍事力だというのがもっぱらである。

 しかし、軍事力とは戦争の道具である。軍事力が保証するのは、勝とうが敗けようが戦争ゲームの手段を持っているということに尽きるのであって、安全保障の充実とは言えない。

 自衛のために軍事力を持つという。しかし、どこの国においても、戦争して他国をやっつけてわが国威を世界に轟かすために軍事力を持つとは言わない。本当に自衛のためであれば、戦争は起こらないから、こんなムダなものに巨額の投資をするのは愚の骨頂だという世論が圧するに違いない。現実は、自衛名目の軍事力強化戦争だらけである。

 軍事力を持つとは、こういうことではなかろうか。つまり、軍事力を持つということは、戦争ゲームに参加する意思がある。戦争も外交の一手段であるから、戦争外交をする用意があるわけだ。だから論理としては、軍事力を持たない国に対して戦争ゲームに参加せよと言うことはできない。

 補足すると、1960年、アメリカは米軍による反革命軍を組織してキューバ侵攻を企てた。キューバには軍事組織はなく、人々が銃を手にして対抗し、キューバ革命軍を率いたカストロと共に鎮圧した。これなど、アメリカ外交史上の大きな汚点の1つである。こういうこともあるから、強大な軍事力を持つ国が軍事力を持たない国に侵攻しないという理屈は完全には成り立たないが、双方が軍事力を持てば、道徳的非難が無効になることは事実である。

 では戦争というものが、かりに勝てば赫々たる利益を得られるかというと、そうではない。戦争に勝利して配当金をもらうというような期待は成り立たない。第二次世界大戦で勝利した欧州各国の事情は惨憺たるものであった。たまたまアメリカは国土が戦場にならなかったから上等だったが、その他の国は戦勝戦敗に関係なく、焦土と瓦礫の山に直面した。それも戦争に斃れた人々を思えば幸いと言うべきなのかもしれないが、無意味な後付けの理屈に過ぎない。

 思うに、戦争が終わった直後ほど、まともな人間が多かったことはなかろう。日本の事例を考えても同じである。ところが、戦争から遠く離れるにしたがって、加速度的にまともな人が消えていく。記憶が薄らぐだけではない。戦争を知らない世代がどんどん増える。戦争体験を伝えるとしても、戦争を知らない世代の波は大きい。それに戦争賛歌のドラマや漫画が後を絶たない。

 かくして、やりきれない話だが、現実の歴史を見れば、反省なんてものは持続性がないわけだ。

 さらに産軍複合体問題もある。高度に発達した資本主義世界において、軍事産業また利潤と無関係には存立しえない。日本の軍事産業が時折批判されるが、平和憲法を持たない国々の軍事産業と比較すれば片手間仕事的である。お国のためと言いながらも防衛省相手の商売はまず成り立たない。だいぶ平和国家日本の看板はペンキが剥げてきたが、そんなわけでまだ捨てたものではない。だから、政府が武器輸出に熱を上げるのはとても賛成できない。

 このように考えると、いまは幸い? プーチンが悪役を一手に引き受けているけれども、軍事力強化に狂奔する世界は常軌を逸しているとしか言えない。常軌を逸した世界にわれわれは生きている。

核兵器論争の怪しさ

 もし核戦争が始まれば、残るのは放射能の灰で、人間も文明もすべて灰になる。これ、もう少し真剣深刻に考えられてもバチは当たらない。

 軍事力による威嚇で、敵が屈伏するという考えから、いずれの国も軍事力強化にのぼせ上る。しかし、軍事力強化をしても、敵は屈伏せず、相変わらず戦争が発生する。威嚇によって戦争をなくすという理屈はとっくに破綻している。にもかかわらず、軍事力威嚇戦略が平和に貢献するというのは妄言か幻想である。

 その延長上に核兵器がある。核兵器の破壊殺傷能力は抜群だから、敵は恐れ入りましたと言う皮算用であるが、恐れ入るどころか自分たちも核兵器を製造する。つまり、核兵器を使った威嚇効果もすでに破綻している。ところが、日本においては、アメリカの核の傘にあることが最大の安全保障だという集団的幻覚状態にある。

 核兵器が使用されれば、保有国同士の国民は双方悲惨な被害にあうのは理論的に証明されている。すなわち、核の傘が人々の安全を守るのではなくて、実は、人々が人身御供になっているわけだ。あるいは、いざとなれば核による集団自殺させられるということである。悲惨な核兵器で敵をやっつけるというのは、サディズムかもしれないが、実は、自分の運命がそれなのだから、これではマゾヒズムである。

 核兵器に対する実際的防衛手段はない。核戦争が意味するのは相互心中である。燃えるような愛国心を抱いて真っ先かけて突進したのは大昔の戦争だ。いまや、愛国心などいくら燃やしても核戦争が始まれば、瞬時にして蒸発するのみである。威嚇が平和に通ずるというような幻想の行き着いた先が核時代である。

 1961年、キッシンジャーは、「核時代の戦争は、たとえ通常兵器の戦争であっても、核兵器がまったくない状態で戦われることはない。いまや、あらゆる戦争は核戦争なのである」と語った。この言葉は、当時は真剣に受け止められなかったが、まさしく、その通りである。

 プーチンが核を使うと語ったとマスコミは大騒動した。まったく、ことの理屈がわかっていない。

お先真っ暗を抜けるために

 核兵器は、軍事力が防衛の唯一の方法だという幻想から生まれた。その核兵器が人類と文明を灰燼に帰すということがわかった今、われわれは問題をいかに考えるべきだろうか。

 もともと、素直に考えれば、軍事力は必要悪の存在である。必要悪を追求した結果、必要悪が存在することが人類を滅亡させるという事態を招いた。つまり、必要悪は存在しないほうが理屈にかなう。必要悪は廃棄するしかない。

 軍事力システムにしても、核軍事力システムにしても巨大、かつ複雑であって、その解体が容易でないことは誰にもわかる。しかし、存在しないほうが正しい必要悪を存在させることは、さらなる無理な理屈を重ねるのみで、世界の終わりへ突き進むだけのことである。

 容易ならざる事業ではあるが、常軌を逸した世界を正常な軌道に戻すのだから、絶対的価値のある事業である。

 世界中でポピュリズムがまん延しているのは、政治が本来の価値ある挑戦をおこなわず日和見・場当たり的な言動・行動をくり返しているからであり、価値ある事業を志向するならば、ポピュリズムも必然的に解消していくだろう。

 核戦争というような事態も、人類の歴史の、ある段階における産物である。つまりは、人間が作ったのであり、空から降ってきたわけではない。自分たちが作ったものによって、人類が壊滅の危機にあるということ自体、人間疎外ならぬ人類疎外そのものである。まさか、自分が作ったものによって自分が滅びることを期待する人は存在しないだろう。

 核戦争の危機を克服するためには、人類が新しい歴史段階を創造するという理屈になる。そうした動きは随所に見られる。核兵器禁止条約がそれであり、環境問題における苦心の取り組みもそうである。

 話は意外と簡単でもある。民主主義は人類普遍の原理だというが、人類普遍の原理とは、「わたし」がそれを自分の手にし、活用することである。出来損ないの中身不明の愛国心を振り回すような政治家がいなくなった政界を考えてみればよろしい。自分の国の外交を他国に追従するような政治家がいない政界を考えてみればよろしい。

 本当の愛国心とは、自分の生活を大事にし、自分以外の自分の生活を同様に大事にすることである。おかしな政治家が増えたのは、自分以外の自分を忘れ、自分だけに埋没していたからである。

 軍事力を誇示するのは戦争の悲惨を隠す塗装作業である。あえて言うが、戦争の華やかさと悲惨さを比較してみればよい。いかに愛国心があろうとも、戦争の悲惨さを除くことはできない。戦争犯罪という言葉が誤解の1つだ。戦争自体が犯罪なのである。


 奥井禮喜 1976年、三菱電機労組中執時代に日本初の人生設計セミナー開発実践、著作「老後悠々」「労働組合が倒産する」を発表し、人事・労働界で執筆と講演活動を展開。個人の学習活動を支援するライフビジョン学会、ユニオンアカデミーを組織運営。