週刊RO通信

経営者は—–経営をしているか!

NO.1249

 開高健(1930~1989)は、「つねに作家は時代の神経である」と書いた。なるほどと感じ入りつつも、わたしは思うのである。ただしくは「つねに人は時代の神経である」、と。

 たとえばスーパーのレジ担当者も間違いなくお店の神経である。マニュアル的に、単純に愛想よくして、入力を間違えなければよろしいのではない。お客の様子を観察していれば、何か! 発見するものがあろうじゃないか。

 昨今、レジで入力した結果から膨大なデータが得られている。しかし、それは他店とて同じことで、実際のお客と接していない人々が数字から読み取ることは、いわば量的側面に止めを刺す。もちろん、それも神経ではあるが。

 言いたいのは、ものを作るとか、売るとかに関わらず、人はいつも時代の空気を吸って生きているのであって、何が起ころうとてんで頓着しないのであれば、神経どころか、日々の生活において漂っているだけである。

 たまたま、日経新聞(5/6電子版)が、意識調査で「日本の科学技術の競争力低下」を若手・中堅技術者に問うた結果を報じている。対象者は141人である。これ、妥当か否かはどうでもよろしい。

 経営者の新聞を呼号する日経であるから、ならば、これは経営者の危機感を代弁しているか、あるいは危機感なき経営者に警鐘を鳴らしているのか、のいずれかであろう。そこで、いくつか気づいたことを書きたい。

 1960年代の技術者は、なんとかして先進国の技術に追いつき、独自の技術力を確立したいとして一所懸命だった。競争力低下どころか、彼我の差ははっきりしている。ひたすら「よいもの」を作りたい一念であった。

 アスリートに例えるまでもなく、科学技術力なんてものは、自分が育てるしかないのであって、1つひとつの仕事に最善を尽くす。よいものを「早く・安く」作るために奮闘努力したのである。

 ところで、競争力があるとしても、仕事の最善を尽くしているとは限らない。ここしばらくの大企業における不祥事が氷山の一角でないことを願うばかりである。これは規則の押し付けで片付く問題ではない。

 わたしの関心は、働く方々が1つひとつの仕事に最善を尽くすように、経営者がマネジメントを展開しているのかどうかにある。わが経営者諸君は、企業規模の大中小に限らず、働く現場の事情に疎いか、無視している。

 現場を知れというのは、トップが水戸黄門漫遊記をやるとか、社員個々人に直接メールを配信することではない。経営陣が自由闊達にものを言い合っているのかどうか。「よし、これで行こう」という合意が得られているか。

 次に、経営者各人が自分の担当する管理者と前記同様の気風を確立しているかどうか。わたしが思うには、単純に上位者の指示を下へ下へと押し付けているだけではないか。その証拠に現場は人手不足でてんやわんやである。

 いまだ経営者のなかには「身を粉にして働く」「わしらは寝ずに頑張った」というような考え方が強い。こんな考え方は押し付けるほうはサディズムであり、それを受け入れるほうはマゾヒズムである。

 身を粉にして働くような事態から、現状改革のアイデアが発生するわけがない。戦前を見よ。劣悪苛酷な働き方において、ポジティブな組織文化は起こり得なかった。仕事の最善を尽くすどころかだらだら残業がオチである。

 組織末端の声が組織を通じてトップに届くか? 直訴ではない、組織のルートを通じて日常的に届いているか? 届いていないに決まっている。届いているのに何ら変えられないのは経営陣の能力がないからだ。

 縦関係もだが、横関係はどうか? 職場の仲間同士が何でも自由に発言し合えるというような組織は決定的に少数派である。誰かがよいアイデアをもったとしても、自由に発信し受信する関係がなければ伝播しない。

 多くの方々が職場の人間関係に腐心されている。人間関係を円滑するために「沈黙は金」になっているのが、わが企業の多数派ではないか。わたしは深刻に日本的コミュニケーションの在り方について心配している。

 企業を動かすことは、日々、関係者の協働をダイナミックに組織化することである。号令すれば、人が動くと考えるような経営者は時代錯誤の化石人間であり、ダメ経営者であると言わざるを得ない。