週刊RO通信

歴史は動く、動かせる

NO.1221

 中国の秦漢時代(前221~後220)には、「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」とし、庶民は社会道徳の対象でなく、士大夫層は礼制により刑罰対象から外された。とはいえ悪事露見すれば爵位を剥奪された。今回解散総選挙は、安倍氏が自分の政治的不祥事隠しを謀った。まるで秦漢時代並みだ。

 さて、不祥事隠しは(議席だけではなく)果たして成功したのだろうか。

 なるほど、大概の人々は太っ腹だ。自分の財布が盗まれない限りは——それに日本人は「見て見ぬ振り」するのにも長けている。悪い事をしでかす輩が権力者であれば尚更だ。権力者に楯突いても得はしない。それよりオコボレを期待する。少ないオコボレでも、あれば儲けものだ。

 また、国粋主義者であれば考える。モリ・カケ食い逃げは間違いないが、こんなことで大日本国の総理が失脚してよいのか。国際的恥さらしだ。いまやトランプとの刎頚の交わりである国際的政治家を支えねばならない。

 たまたま円安が続き、株高にもなった。なんとかミクスが真っ当な経済政策でなくても、いまがよければよろしい。経済なんて時の運だ。「政財官の鉄のトライアングル」がこのまま大過なく続くのがもっともよろしい。

 資本主義における政治の役割は、ともすれば「自由放任」に流れる経済主体を掣肘し、国民的経済格差を広げず、社会的富の公正分配を図るにあるが、それが強化されれば、企業は必死で稼いだ甲斐がない。

 政治家も財界人も自分たちの自由度が大きいほど上等で、重ねて官界もまた、デモクラシーでいうところの「パブリック・サーバント」などご免被りたい。上意下達の政治こそ大日本国の礎でなくてはならぬ。

 このように忖度してみると、トライアングル組としては、日本国憲法ではなく、大日本帝国憲法のほうが都合よろしい。国の政治は、「われわれ(政財官)にお任せください」という文脈がよく見えてくる。

 前原氏による「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の大博打は、ジリ貧を避けようとしてドカ貧を招いた。結果的に小池的希望=野望? を打ち砕き、政治家として大切な「人間的信頼感」も失ったように見える。

 ところで、歴史における事実(fact)には原因(cause)があるのみならず、思いもよらぬ結果(effect)を呼ぶことがある。直接的には小池的「踏絵」が引き金になって、枝野氏らが立憲民主党を立ち上げた。

 小池的「踏絵」は、前原的博打がなければ発生しなかったであろう。だから身を捨てた意義がなかったわけではない。それが一転して、枝野的「誠心誠意」「一心不乱」「この道一筋」の訴えが空疎な選挙に意味を注入した。

 民進党両院議員総会で、前原提案に対して、疑問・異論がわんさか出なかったのが、そもそもおかしい。解党という提案に満場一致するなど、外から見れば、もはや政党としての内実が備わっていなかったとしか思えない。

 内部論議が友好的かつ賑やかにおこなわれているかどうかというのは、格別政党だけのことではない。あらゆるチーム・組織において、常に注目されねばならない基本的課題である――ということもわかったと思う。

 前原氏は「失敗の英雄」にはなれなかった。しかし、枝野的「失敗を恐れず」の土俵際でのここ一番の粘り腰は、目下の時点では小たりといえども、沈滞した日本的保守政治にひさびさ喝を入れる可能性を秘めている。

 降りしきる雨の中でも、枝野演説に、熱心な市民の共鳴・共感の声援が飛んだ。「安倍さーん、もう辞めて」ではない。一緒にやってみよう。いま、ここで声を出そう。蛍の光であっても、暗闇では光るという気概である。

 枝野演説は、まさに愚直な連帯の呼びかけである。説教くさくない。空疎な飾った言葉を弄ばず、ひたすら、市民的感興に訴えかけた。アパシーの荒野に立ち向かい、アパシーの原因に迫る力があった。

 労働組合でも1980年代辺りから、組合員のアパシーを嘆く活動家が少なくなかった。それはむしろ組合活動家の組合員離れであった。枝野氏は、政治家の国民離れに気づいたようだ。コペルニクス的転回である。

 選挙後のデモクラット市民の願う政治の展開について、明らかに確固とした「核」ができた。わが国のデモクラシーを足許から踏み固めていこう。掃き溜め的選挙戦のなかで、未来を示唆する物語が1つ作られた。