くらす発見

映画『オッペンハイマー』

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

生命が踏みにじられる

 プーチンが「野蛮なテロ攻撃」と語る。まさにその通りである。しかし、違和感を禁じ得ない。プーチンが国内外に野蛮を展開している震源地だからである。まるで、自分がおこなっていることの評価ができない。未開の人である。

 人の生命の大切さがまったく理解されず、破壊と殺傷の数が手柄になる。これは野蛮以外のなにごとでもない。

 人の生命を人が奪うことは許されない。国家の名においてだろうが、主義であろうが、宗教であろうが、人の行為としての殺人は人の道に反する。

 戦争犯罪というが、戦争自体が犯罪である。殺人には原則として軽重がないが、無差別殺人はもっとも避難されて当然である。

 怨念の塊は膨張する一方であり、報復がまた無限に繰り返される。しかし、罪の意識はほとんど無視される。

 1990年、イラクのクウェート侵攻に始まった湾岸戦争では、米軍によるイラク攻撃が時々刻々テレビを通じて流されたが、ふと、正気に返ったとき、あたかもテレビゲームを見ているかのような心理状態に気づいて、強烈な罪悪感に襲われた。

 いまや戦争は、自律型致死兵器システム(LAWS)によって、破壊と殺戮の対象者以外にとっては、テレビゲームと変わらない。ウクライナ戦争は、別名AI戦争の実験場といわれる。一度始めた戦争を、人間が停止させることが極めて困難になっている。

 旧約聖書のバベルの塔(創世記第11章)は、神が人間の自己神格化による傲慢を憎んで工事を中止させたことになっているが、現代版バベルの塔たるAI戦争は、人間性すらも喪失するかのようである。

仕事人生にはactionがほしい

 人は食べるために働かねばならない。働く意味は生活の糧をえること=laborである。ところで人間は自分の行動に自分らしさを求める。衣食住のために働くだけではなく、自分の個性・能力を発揮したい=workのである。それだけで十分かというとまだ不足している。社会の一員であるから、社会のために有意義な仕事をしたい=action。

 すべての仕事は、社会的有用だから、すでに社会のための価値をもつのであるが、ただ存在するだけではなく、人々に認められ、さらに自分自身を鼓舞したい。人生には、小さくても歓迎せざる不如意がしばしば発生する。それを悠々と乗り越えていくために、人は仕事にactionを求めるのだろう。

 いま、映画『オッペンハイマー』が話題である。

 理論物理学者のオッペンハイマー(1904~1967)は、ロスアラモス国立研究所所長として、1942年から着手した原子爆弾の開発を牽引した。45年7月16日に、原爆開発は成功した。その作品は同8月6日広島、同9日長崎に投下された。

 彼は、のちに「自分の手が血塗られている」「科学者は罪を知った」と語った。原爆の父と称えられたが、水素爆弾開発に反対し、1954年4月には、マッカーシー旋風の赤狩りの生贄として、公職を追放された。しかし、彼は罪が消えたとは思わなかった。

 オッペンハイマーはもちろんlaborのためではなく、自分の個性・能力を発揮する仕事としてworkに励んだ。そして赫々たる成果を上げたのであるが、その科学的作品は巨大な殺傷破壊の兵器でしかなかった。原爆投下後、彼は打ち込んだ仕事が社会のためではなく、社会を破壊する作品を作ることだったと気づいた。

 大統領トルーマン(1884~1972)は、「もっとたくさんの人命を救うために価値があった」と強弁したが、オッペンハイマーは自分を偽る政治家ではない。自分の仕事が巨大な負のactionだったことが許せなかった。苦悩は人生の最期まで消えなかっただろうが、人間として人生を生き抜いた。

 世界中で人間の尊厳が忘れられたような昨今、映画『オッペンハイマー』が製作された意義があると思う。