週刊RO通信

働き方改革(法案)の看板に異議あり

No.1215

 政府が、働き方改革関連一括法案を今度の議会に提出するというのだが、非常に程度がわるい。働く人であれば誰でも承知しているように、常識的にみて無茶苦茶な残業をやらせている――という認識がないみたいである。

 今回の法案は――長時間労働を追認する意義――があっても、長時間労働を解消する方向へのインパクトが全然ない。ということは、経営側が生産性を上げることなど皆目考えていないという証明でもある。

 そもそも官僚が作文する。彼らは長時間労働当たり前の世界で生きている。しかも経営側ファーストである。なんとなれば政府与党が財界べったりだからである。忖度どころか政財官の合作である。

 仮に、連合の役員と野党議員が寝ずに奮闘しても、法案に直接関わるメンバー同士でみれば、多勢に無勢だ。ここは一番、主人公の働く人々に声を挙げてもらわなければ悪法がまかり通ってしまう。

 働き方改革というなら、その主体は働く人である。働く人の意見をまとめ上げずして働き方改革を高唱するなど、いわばペテンの類である。まくら言葉に「働く人の視線に立って」というが、明らかに言い繕いだ。

 なぜこんなバカバカしい法案が出てくるかというと、要するに、働く人々がひたすら沈黙しているからだ。どこで発言するのか? 少なくとも組合があるのならば、組合でおおいに話し合おうではないか。

 あえて言わせてもらうが、「あなたが抜けても会社は動く」のだ。わたしが残業やってがんばっているから会社が持つのではなく、あなたのその仕事ぶりがあなたと会社をますますアリジゴクから抜け出せなくさせている。

 会社思いのポーズを取る前に、自分の日々の生活ぶりを考えていただきたい。睡眠時間を除いて自分の時間をどのくらい持っておられるだろうか? 「自分の時間がないほど頑張っている」を売りにしていないだろうか?

 なぜそれを売りにするかというと、他の仲間に後れをとりたくないからだ。他の仲間も自分同様くたびれ果てているが、お互い孤立しているから、自分だけのダンピング的売り込みに励む。自分で自分の価値を下げている。

 経済学において、余暇=自分時間は「財」なのである。残業やって儲かったと思っているのは錯覚である。働く時間=非自分時間が増えれば増えるほど、自分の貴重な「財」を失っているのである。

 しかも、その時間は取り返せないのである。働く人においては、余暇=財の認識が極めて薄い。失礼ながら、要するに自分の人生を本気で考えていないからではなかろうか。だから自分の貴重な人生を手放すのである。

 もちろん、仕事を通して自己実現に接近する面もある。しかし、寝る時間を除いて、いや、場合によっては寝る時間も減らして奮闘するに価するほどの仕事に就いているお勤め人が多数派であるわけがない。

 ということは、貴重な「財」を失いつつ、はした金! に目くらまされて働く機械と化しているに過ぎない。客観的にいわせていただけば、長時間労働とは、こういう理屈で規定するしかない。

 さて、まあ、いかなる仕事においても、他者の上に立つ役割というものは愉快である。なんとなれば、自分の主張、裁量範囲が大きく、なおかつ他者を統御できるからである。これは、官僚組織的機構で働くからそうなる。

 経営者などが長時間労働に痛痒を感じないのは当然である。なにしろ、帰宅すれば野暮亭主としてぞんざいに扱われるが、官僚組織に君臨する限りは下に置かれるようなもてなしは決して受けないからである。

 かくして「働く人の視点に立って」ではなく、「働かせる側の視点に立って」間に合わせた法案である。もちろん、「働かせる側」が言い分を表明するのは当然だ。対して「働く側」の言い分もきちんと対峙させねばならない。

 敗戦まではデモクラシーなく、労使対等なく、働く人は「働かせていただく」のであったから、「このように働きたい」という意見を表明できなかった。いまは「働く」のであって、「働かせていただく」のではないのである。

 大根を売る八百屋さんが、大根に売値をつけず、お客さまに決めていただくであろうか。働く人は、自分の仕事に対して堂々と値札をつけよう。残業込みが生活費なのであれば、その賃率があなたの仕事の売価なのだ。