論 考

労働組合役員への問題提起

筆者 新妻 健治(にいづま けんじ)

――労働組合における組合民主主義の形骸化や運動の不在は、社会変革の主体であるべき労働組合の存在意義を失わせている。そして労働組合役員が、この問題を放置することは、そのことに留まらず、人間としての自分の生き方に背くことになると、私は提起したい。

退任に当たっての3つの提起

 私は、33年余り専従で続けてきた労働組合役員を、定年退職によりこの秋に退任した。所属組織の定期大会にて、退任挨拶の機会を得た。まず、これまでともに活動し、また私を支えていただいた仲間への感謝を述べた。加えて、「私らしく…」と断ったうえで、3点の問題提起をし、あらためてそれを御礼の挨拶に代えた。

 問題提起の1つ目は、「雇用を守り、労働条件を維持向上する」とは、労働組合の基本的な機能だが、これを実現できる取り組みを運動として実践してほしいと提起した。

 私の労連会長としての最初の仕事は、グループ傘下の百貨店の投資ファンドへの売却への対応であった。私は、まずは雇用の確保と労働条件の維持、そして新たな経営体制との労使関係の構築に尽力した。投資ファンドの目的は、百貨店を継続的に経営することではなく、買収した企業の価値を高めて、売却によりその差益を得ることにある。私は、大会参加者に向け、資本という存在は冷酷であり、労働組合はそれに備える必要があると訴えた。

 次に、私たちを取り巻く混迷を深める社会の問題で、重層する3つのことを指摘した。1つは、近代という時代が、大きな転回期を迎えていること。2つ目に、この近代を覆う資本主義という経済・社会システムが限界をきたしていること。そして3つ目に、明治維新以来、「強く豊かになろう!」という、経済至上の日本社会の在り方、また、敗戦後の経済成長を支えた日本社会の仕組みが、成長終焉とともに機能不全となったことにある。

 そのうえで、2つ目の提起として、私たちの運動は、この重層する社会の問題を見極め、「人間がより人間らしく生き得る社会を実現する」という方向で、その問題解決を図る、つまり社会変革に資するものでなければならない。

 3つ目は、1つ目と2つ目のテーマを重ね合わせた運動を、組合民主主義を基盤として創造し、実践していかなければならない。労働組合を形成する原理は、働く仲間の思いを凝集するところにある。

 だから労働組合活動の基本は、仲間の思いを遂げるため、1人ではなし得ない協同の課題を見極め、1人でも多くの仲間の参加を得て、みんなで話し合い、みんなで決めて、みんなで課題解決に取り組むという、組合民主主義にある。この組合民主主義こそが、労働組合の力となる。

 最後に、この運動は私たちがいかに働くべきかという「働き方」の問題であり、またそれは詰まるところ、人間いかに生きるべきかという「生き方」の問題に帰結することを指摘した。

 結語として、私は現職を退いても、生きている限り「このままでは終われない」という信念(思い)のもと、「次代社会の構想と、その実現のための労働組合運動の創造」をテーマとして追求していくと挨拶を締めくくった。これは自分自身に言い聞かせる気持ちであった。

組合役員としての振り返り

 思い起こせば、入社してすぐに非専従の組合役員となり、10年が過ぎたとき、会社の職制でのキャリアを歩むのか、労働組合専従となるのか、人生の岐路に立った。私の判断は、いずれの道が自分らしく生きることができるかにあった。だが、そうやって選んだ労働組合であればこそ、労働組合に対する組合員の無関心や活動への参加の低迷を放置することができなかった。

 だから、「組合関与:組合に関わって何かをしたいと思える状態*1」という、心理的概念をビジョン・目標実現の基本戦略に据え、組合員が主体となって参加参画する活動のあり方を追求した。

 おりしも、流通業の破綻が相次いだ。翻って、自社の持続可能性は心許なく、問題ばかりが目に付いた。いきおい私は、それは経営者の責任とばかりに職場の問題を経営者に指摘する立ち回りをした。あるとき、創業者にまでその問題を浴びせるが、彼女は、「あなたがリーダーなら、問題を指摘する立場にはない。まず、君が変われ。」と、喝破された。他責ばかりの自分に愕然とした。だから、他責を排し、自らを問題解決の主体として、仲間とともに経営の持続可能性を現実にするための取り組みを、運動とすることを目指した。

 考えるに、経営の問題という現実は、機械が生み出すわけではない。それは、経営者も含めた企業に帰属する人びとが、働くことでもたらしている。であるならば、私たちが求める現実を生み出すためには、いかに働くべきかへの具体的な解が必要なのだ。

 また、企業の持続可能性は、企業が社会から必要とされ続けることで適う。ならば、社会は私たち企業に何を求めているかを学び、それは、私たちがいかに働くことで可能となるのかを明らかにし、実践しなければならない。さらに、働くことの根本には、人間としての生き方があり、また社会は、そこに存在する人びとの生き方の総体として在る。とすれば、私たちが創造しなければならない運動とは、人間いかに生きるべきかを根本において、いかに働くべきかという運動であるべきだと考えた。

 私たちは、その運動の実践に踏み出した。その実践を理論化し、「働き方の改革」と称し、その理論から実践を体系化し、さらに運動に取り組んだ。これが、働く仲間の共感を呼び、活動に主体的に、自律的に、連帯して関わる仲間の裾野を広げ、運動たり得る兆しであると、私たちは感受した。

組合民主主義の形骸化と運動の不在

 労連会長を退任し、定年に至るまで携わった仕事は、いずれも労働組合とその運動に関わるものだった。この間、私の信念のなかに、大きな問題が懸案としてのぼった。それは、労働組合の組合民主主義の形骸化であり、運動の不在である。

 労働組合に対する組合員の関心の低さと活動への参加の低迷は、喧伝されて久しい。奥井*2は、賃上げ闘争だけでは組合員の共感が得られない。組合としての新規事業を開発しなければ『労働組合が倒産する』と、著作を通じて社会に発信した。それからすでに40年は有に超えた。この間、この問題が労働界のメインストリームなったと感じたことがない。いまだに、労働組合の役員研修に講師として出向けば、「組合員の関心が低い。」と愚痴を言うだけである。

 折に触れ感じることは、組合役員は、組織を円滑に運営し維持することを目的とし、そのことを所与のものとして疑わない心性が根深く、官僚化している。また、組合役員は、組合員の関心の低さと活動への参加の低迷を、関心を引くサービスの提供で打開しようとする。組合員を活動の主体ではなく、サービスの受給者として「顧客化」してしまっている。

 また、関心の低さは教育の不足にあり、教育を徹底すべきだという。しかし、組合員には参加の時間がなく、活動への理解の浸透は困難だとして出口がない。労働組合として、仲間とともに取り組むべき協同の課題を追求するでもなければ、組合員の運動への関与動機を見極めようともしない。だから、組合民主主義は形骸化し、運動にはならない。

 なぜか。経営組織は、変化して留まらない市場・顧客に対峙し、収益獲得と自らの持続可能性を確立しようとする。それゆえに、組織の官僚化を回避するための手法を講じる。それは、構成員を主体とし、組織マネジメント領域全体を対象にした、不断の組織開発がなされる。労働組合にはそれも無いと、私は研修で訴える*3。この論は、ここで留めおく。

本当の抑えどころ

 広い意味で、社会とは、そこに存在する人びとの表現行為が創り出している*4。そう考えれば、歴史的にも社会改革の主体であるべき労働組合は、組合員1人ひとりが、「自立した主体」として「声を上げる」という、自分の信念(思い)を表現することができる状態を、運動の基本とすべきだ。組合員が、表現することで、自分が変わり、それが状況変化を生み出していくからだ。ここが、本当の押さえどころではないのか。

 私たちは、人間として生まれた限りは、自分の時間を生きたい。自分がそう信念をもてばこそ、他者も同様であるという信念を理解できる。つまり、自分の時間を生きたいという信念は、相互にそう在ることを必然とし、総体として、それを可能とする社会の実現に向かう。

 この原理から言えば、労働組合役員が、労働組合組織の官僚化や組合民主主義の形骸化という問題を放置することは、自分の時間を生きたいという、人間としての本源的な生き方を失っていることになりはしないか。それでいいのだろうか。組合役員のみなさんには、そう問題提起したい。

<参考文献>

1)「ON・I・ON2プロジェクト~関与型組織の再生」、公益財団法人国際労働研究所、https;//www.iewri.or.jp/onion2/index.html

2)『労働組合が倒産する~美的に大胆に菜ッ葉服から飛び出せ』、奥井禮喜著、1981年、総合労働研究所

3)「コミュニケーションデザイン~職場活動がみるみる変わるー新たな生活様式に対応した労働運動プロジェクト報告書」―「労働組合の組織開発に向けて」新妻健治、2022年、公益財団法人富士社会教育センター

4)「社会を変えるには」、小熊英二、2012年、講談社現代新書