論 考

優等生社会のパラドックス

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 ――国立大学法人法改正案が今国会に提出されている。大学のガバナンス強化を狙うというが、わが大学の不振はそんなところにあるのではない。大学教育、いや、そもそも教育の意義が矮小化され、議論が正鵠を射ていない。

 国立大学法人法改正案を簡単にみておく。東北大・東大・阪大・京大・名大および東海国立大学機構に運営方針会議を新設する。同会議は学長と委員が構成員で、委員は文科大臣の承認をうけて学長が任命する。審議するのは中期目標・計画、予算・決算で、学長に改善要求することや、学長の選考にも意見を述べる。運営方針会議の権限は非常に大きい。その指導よろしきを得て、学長のガバナンスを強化する。それが国際的にパッとしないわが大学の活性化策になるという文脈である。

 しかし、大学の不振問題が大学(学長)ガバナンス程度にあるのだろうか。どうもピント外れに見える。まして、大学に政財界の意見を通しやすくするというのが本音だとすれば、木を見て森を見ないどころか、大学を頂点とする日本の教育をいじくりまわして混乱させるだけである。

 改正案が大学を政財界の意向に縛り付けるものだという(大学側の)危惧・不信感に対して、文科省は「まったく悪意がない」と言っているが、悪意か善意かの締まりのない議論ではない。焦点ボケの問題にエネルギーを割いていることに気づかないようでは教育を論ずる資格がない。

〈学ぶ主体をこそ〉

 大学の二本柱は、研究力と教育力である。

 研究力と教育力はまったく別概念である。研究力の優れた学者が教育力に優れているとは限らない。教育力が優れていても研究で成功するとは限らない。あえていえば、研究力は学者自身の才能であり、教育力は学ぶ人の才能を引き出して発揮させることである。

 大学としては、研究力が優れているから優秀な学生を集められるし、研究力の高みに向かって教育力が発揮される。研究力が優れていなくとも教育力を発揮できるだろうが、それは大学教育以外の高等教育レベルの思想である。

 研究活動は時間(と資金の裏付け)を必要とする。臨時雇いの研究者が多い現状で、どえらい研究成果が上がると考えるべきではない。優秀なはずの政治家諸氏が、不安定な身分のために政治研究に力が入らない。ために日本政治が地べたを這い回っている。教育を論ずるためには、政治家は隗より始めねばならない。

 教育力に優れた教授がいても、勉強の成果を左右する最大の力は学ぶ本人の才覚である。教える力がそのまま勉強の成果に反映してほしいが、それはないものねだりである。教えるというのは、知識を植え付けるだけではない。本人がもつ才能に本人自身が気づき、教えてもらうのを待つのではなく、自分から学ぼうとする意志・行動を引き出すことにある。(先生としては)自分が好きな研究に没頭するよりも、他人の学ぶ意志・行動を引き出すほうが難しい。

 研究力にせよ教育力にせよ、教授自身のエネルギーが根源である。はじめに管理システムありきではない。むしろ管理システムは余計な手出しをせず、個人が学び研究する力を最大限発揮できるように見守り支援するべきである。あえていうが、文科省が教育現場に余計な采配を揮うから、日本の教育が鳴かず飛ばずの事態へ立ち至った(というのが筆者の分析である)。

〈ガバナンス論の錯覚〉

 大組織の大学を中小企業並みに考えて、ガバナンスをトップダウンでおこなうという発想自体が的外れである。トップダウンといえば話は簡単だが、現実とはまったく異なる。いまごろトップダウンを宣揚するセンスもわからない。

 トップダウンはプラスよりマイナスが大きいと認識すべきである。100人に1人の卓越者が存在することは事実だが、たまたまトップがその1人だという保証はない。(だいたい外れている)トップが優秀だからといって、いちいちの判断が正しいという保証もない。(だいたい外れる)

 これをうんざりするほど体験したのがイギリスである。定見なき政治家どものトップダウンを許容したために、Brexitに突っ込み、その後の大混乱を招いた。その苦い体験から、(世界に誇る同国の)医療システムはトップダウンを監視するために、数千人のエキスパートが活動している。つまり、「規律ある多元主義」を実現しようという方向へイギリスは歩みを進めている。

 わが国の組織もこの線で進むべきだ。トップダウンを即断即決と解釈するのは止めたい。おおかたは拙断拙決になりやすい。

〈即戦力論の愚〉

 運営方針会議を通して政財界の意向を直接反映したいという思惑も透けて見える。これは大学の自治を殺すだけでなく、教育をダメにする最短コースである。政財界では、大学卒に即戦力を期待する声が強いが、根本的に間違っている。教育はビジネス官僚を作るのが目的ではない。組織にせよ、社会にせよ、発展させるためには、もっと自由闊達にものごとを思考し、活動する意欲のある人を育てなければならない。

 即戦力論を主張する人によくよく考えてもらいたいことがある。わが国は1980年代、ひたすらIBMのコンパチブル路線を走っていたが、コンピューターのダウンサイジングの発想が出なかった。携帯電話が流行し始めても、漢字入力の発想が出なかった。風力発電が始まっても、ただちに開発・製造に着手しなかった。水力発電で十分に羽根の技術力をもっているのに本気の挑戦をしなかった。

 これらが意味するのは、時代を先駆けるアイデアを生み出す発想が非常に弱いことや、リスクをかけて挑戦する進取の気性が弱いことを示している。

〈優等生社会の誤謬〉

 結論から言う。日本型優等生をつくる教育の誤謬に気づかねばならない。

 なるほど日本人は子どもの教育に非常に熱心である。ところが勉強の目的は成績優秀、つまりテストで高い点数をとることが目的化している。入学にしても、入社にしても試験は点数を競う。だから親としては試験に強い子どもを作ろうと躍起である。点取り虫が辿り着くのは、寄らば大樹の蔭である。

 日本の産業界は窮屈で、大きく伸びようという気迫が弱い。社員が挑戦する気迫に欠ける。その結果、企業内は椅子取りゲームと化している。

 自己発電力が弱いから供給側として新しい市場をつくる力がない。ために市場競争は低価格競争、コストダウン一辺倒になりやすい。コストダウンの最大の対象は人件費である。なにがなんでも人件費を下げる。ただ賃金を抑えるだけでは不足なので、非正規社員というえげつない制度を政財官あげてつくり出した。

 ただし、労働者は賃金によって生活する消費者である。非正規社員が40%をも占める社会において消費需要が活発になるわけはない。つまり、人件費コストダウンは典型的なタコが足を食べる政策であって、タコの成長に寄与しない。日本企業の気風は縮小均衡そのものである。

 高学歴社会であるから、大学進学者が多い。受験戦争の苛烈さはそれを従順に受け入れて優等生になった人ほど身に染みてわかっている。大変な生存競争の生き残りであるか。勤め人になっても油断できない。一挙手一投足、すべてが減点評価の対象であり、時々刻々、与えられた仕事を無難にこなし、組織内競争での生き残りをめざすのが、勤め人の本懐という体たらくになる。

 かつて「東大出が日本をだめにする」という言葉が話題を呼んだ。これは単なる皮肉ではない。人々が優等生をめざして競う気風が支配すればするほど、優等生ヒエラルキーが形成され、人々はそれにがんじがらめになってしまう。優等生が社会をダメにするわけだ。避けられない自己矛盾を指摘している。

 たまたま優等生の上位が先見性、創造性、挑戦力に卓抜していれば優等生システムをプルアップするが、受験戦争で苦労に苦労を重ねて獲得した座にあるために、さらに積極的に苦労を買って出るような人は少ない。おさまって、追い付いてくる連中と距離を置く、あるいは座を奪われないように蹴っ飛ばすのが常套手段になりやすい。

 なにしろ、自分が生きるために精一杯である。そのような生き方が本来の優等生のあり方ではないという反省ができない。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(1918)は、子供向けに書かれた小説であるが、そのまま現代社会に当てはめられる。優等生をカンダタと置いてみれば、雲の糸と化した社会がいかにおぞましいかわかるのではなかろうか。

〈教育は人を育てる〉

 もちろん、社会に出て仕事をすることは大切である。だからといって、学校教育が仕事をこなす人つくりになったのでは、人として面白くない。

 欧州の二大思想は、ヘブライズム(hebraism)とヘレニズム(Hellenism)である。

 ヘブライズムはユダヤ・キリスト教精神であり、神によって生きる(外発的)のであり、それは理想に対する献身である。ヘレニズムはギリシャ精神である。自我に基づいて生きる(内発的)考え方である。両者は相対立するように見えるが、めざすところは同じである。すなわち、人間(自分自身)の完成と、精神の救済に向かっていると考える。

 英国教養主義時代のM・アーノルド(1822~1888)は、『教養と無秩序』(1869)において、――自分自身を闡明して教育することに勤しめ――と主張した。人間はどこまでも途上にある。この世を去るまで自分自身を育て続けねばならないという、典型的な教養主義であるが、わたしは非常に心惹かれる。

 内村鑑三(1861~1930)に『後世への最大遺物』(1897)があるが、アーノルドとほぼ同じ主張を展開している。

 生成AIの時代である。いまさら教養主義などと思われるかもしれないが、わたしは、生成AIの時代だからこそ、人間としての教養の意義が重さを増していると言いたい。人間世界のことは、すべて人間が作ってきたのである。その人間とはいったい何なのか。ますます、人間は人間であることにこだわらねばならない。政界で論じられる教育の線の細さは嘆かわしい。