論 考

虚構性と資本主義

 筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

 ――現実の社会は虚構であり、それを引っ張っているのは虚構の人ではないか。社会の問題は、損得関係ではなく、問題を揚棄(止揚)せねば、本当の解決にはならない。

「虚構性」の性格の人

 『あしあと』*1という非売品の書籍がある。私が所属した会社の名誉顧問・故小嶋千鶴子が、同僚、後輩、友人に書き残した。自らが創業した企業が大きく成長して、守勢の時を迎えたとき、その困難を乗り越えるためのメッセージが込められている。私は労組役員時代に、この本を擦り切れるほど読んだ。そのなかに、折に触れ頭に浮かぶ「虚構性」という言葉がある。

 小嶋曰く、「虚構性」を性格とする人は、「真実を真実として伝えず、上司の顔色を窺い、都合の悪い事実をひたすら隠し、一見、真実性があるように都合の良い事実の一端を脚色して良く見せる。」。また、「虚構性」の強い性格の人は、自分の失敗はあり得ず、他人の失敗により現在の不利がもたらされていると主張する。つまり、他人は自分の手段にすぎず、自分のみが目的となる。このような人間が組織の長となれば、組織は壊死(えし)すると。

 また小嶋は、企業の盛衰が、その時々の経営者の意思決定の結果であるとするならば、常にそれには真実が必要であるから、「虚構性」の性格の強い人間は経営者の周辺から排除されなければならないと説く。よって、人事はよく勉強し「虚構性」の性格の人を見極めなければならないと指摘する。

「虚構」であるということ

 私も思い当たることがある。その経験に沿って意見を述べたい。

 「虚構性」を性格とする人は、よく業績を上げ、重用され、要職に就くことが多い。この人はまた、自分の配下に、巧妙に自分の考え方・方法論への従属を、周到な措置を講じて、結果として強要する。また、自分の存在を脅かす者がいれば、周到にその影響力を排除し、自分を保守する。思うに、このような振る舞いは、この人にとっては生きる術・生きることそのものである。

 このような振る舞いは、「虚構」に充ちている。つまり組織の(人間社会における)存在理念の実現に向け、真実を判断の資源とすること、また存在理念に向けた組織の持続可能性に資するという本質については、埒外としている。

 社会とは人間にとってより善くあることを追求するメタシステムである。その社会を構成する数多の組織(企業も)はサブシステムとしてあり、それを支える存在である。とすれば、それを埒外とすることは、人間社会にとっては「虚構」なのだと、私は定義した。

「虚構性」の発現と連鎖

 「虚構性」の性格を発現する人の根本には、自分の経済的価値の獲得、それに資する地位の確保が、極めて強い動機としてある。資本主義社会において、人びとはこの経済システムに組み込まれ、経済価値獲得を「生きる術」とさせられ、それに強く執心し生きることを迫られる。

 「虚構性」の性格の人が組織のリーダーとなれば、「虚構性」の人がこの存在を支えるという連鎖が起こる。人びとは、自分の経済価値獲得、そのための自分の立場を保守することができるのであれば、このリーダーを支える存在となる。そして、この連鎖による「虚構性」の共同体(組織/社会)を形成する。社会に存在する数多の組織が、人びと個人の経済的価値獲得のみの手段と化してしまう。これは、人間社会の目的が忘れられており、人間にとって「虚構の社会」をもたらしてしまう。社会における人々の関係がぎすぎすしているのは、煮詰めればすべての人々の利己主義同士が衝突しているからである。

「虚構の社会」と「大きな利権」

 宮台真司*2が(日本社会の問題として語った)悪い共同体と称したものは、この「虚構の社会」と同義のものと、私は解釈した。そこには、次のような特性があり、事象が生まれるという。

 悪い共同体は、モード(意匠)による空気の支配に包まれている。そしてそこでは、知性を尊重する作法ではない、空気に縛られる作法が支配し、それに抗うものは空気が読めないやつと、仲間から排除される。もしくは、抗うべきと思う人であっても、変化の期待可能性には自信が持てず、その信念は頓挫する。そしてこのような社会においては、「虚構」に充ちた大きな利権が許容されていくのだと主張する。

 この大きな利権が発する、もっともらしいモード(意匠)は、自分の利得にしか関心の無い人びとの思考停止を資源として「神話」と化す。そしてそれは、社会に構造化され増殖され、堅固となっていく。「神話」が社会的啓蒙の衣をまとっている。つまりは、啓蒙社会以前への逆戻りである。

 経済成長下においては、それぞれの利得は許容され、この「虚構性」を覆い隠す。しかし、経済が後退する局面に転じれば、この「虚構性」を基盤とした大きな利権は、強固な岩盤問題として露呈する。そしてこれが、例外的な(これまでは起こり得なかったと思われていたような)問題事象を勃発させることになる。ところが、その問題事象の真因と責任が、どこにも、誰にも、行き着かないという事態に陥ることになる。さらに、例外的な問題事象は常態化して行く。

 このような事態に、人びとは、えも言われぬ不安と不信、そしてやり場のない苛立ちを感じ、これも不可逆的に社会に累積してく。人びとは、うっ屈した苛立ちの留飲を下げようと、有形無形の暴力を講じ(たとえばSNS上のバーバリズム)、それが社会的分断と社会統合の危機をもたらす。そしてこれに留まらず、「虚構性」を基盤とした大きな利権は、人間を生命の危機に至らしめるような現実をももたらしている。

「目的の国」=資本の揚棄

 ここからは論理は飛躍する。――この問題状況は、本源的に、この世界を覆う資本主義がもたらす問題であり、危機ではないのか。

 資本主義は、経済価値獲得を人間に執心させ、「生きること」にまでさせて、「虚構性」を発現させ、虚構を現実の社会にまで至らしめるからだ。だから、この「虚構性」の問題を根本から駆除できるのは、資本主義を支配的な存在としない社会を構想する見識が必要ではないだろうか。

 哲学者のカントは、道徳法則により実現する目的の国を唱えた。目的の国とは、「他者を手段としてのみならず、同時に目的とし扱う社会」だ。私が解するに、この目的の国には、人間がより善く生きるための真理の追求(カントは、人びとが相互を自由な存在として扱うことを唱えた)と、そのための真実の共有しかあり得ず、「虚構性」が存在する余地はない。これは、資本主義が資本のあくなき増殖を本旨とし、そのために人びとを手段とすることを踏まえれば、目的の国は、資本主義が揚棄*3されることを意味する。

 カントはまた、この目的の国を、統整的理念とした。統整的理念とは、決して実現はできないけれども、絶えずそれを目標として徐々に近づけようとするものである。そしてそれは、抑圧しても、回帰することを止めないものなのだと柄谷行人*4はいう。

 歴史的に、社会主義革命は資本の揚棄を目的として追求された。それを危機とした資本は、革命の先兵となった労働組合とその運動を合法化し、その要求を市場化することで、資本増殖のシステムに組み込み、自らの延命を図り、今日に至る。よって、資本主義が本質的に孕む問題は残存したままで、地球的規模の危機を深める結果を招いている。

 今日、労働運動は、この地球的規模の危機を克服する主体たり得るために、次代社会の構想と実現のための運動を創造し、「社会変革」の主体とならなければならない。本源的に何を目指すべきなのかを明らかにし、統整的理念を掲げて、「社会変革」を志し、果敢に実践に挑まなければならない。現状のままに推移すれば、社会は身動きが取れない谷底へ落ち込むのではなかろうか。大きな構想ではあるが、喫緊の課題として知的活動を作っていかねばならない。

<注釈>

1.『あしあと』小嶋千鶴子、1997年、株式会社求龍堂(非売品)

2.『わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか』、宮台真司、2017年、幻冬舎文庫

3.揚棄(止揚) 低い段階の否定を通して高い段階へ進むが、そこに低い段階の実質が保存される。

 4.『世界史の構造』、柄谷行人、2015年、岩波書店