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漂うニッポンのデモクラシー

奧井 禮喜
敗戦から民主主義へ

 15年戦争(満州事変1431~太平洋戦争1945)の「反省」から、わが国は、天皇主権から主権在民の民主主義国家に変わった。これを象徴するのが、日本国憲法である。戦争をする国から、戦争をしない国へ。専制主義・全体主義を否定し、基本的人権・自由権・平等権を柱とする民主主義への変身である。戦争から平和と民主主義の憲法が生まれた事実は、アメリカの後押しがあったとか、棚から牡丹餅とか揶揄されても、憲法の価値を貶めるものではない。

 社会人になってから憲法制定のさまざまな事情を知った。とくに憲法学者・宮沢俊義氏の「日本国憲法自身が革命だ」という言葉が印象に。もちろん、憲法が革命を起こすのではない。憲法を駆使して人々が民主主義を推進するのである。それはつまり、人々が封建時代から敗戦までのように、自己の精神をもたず、権力者の言うままに暮らすのではなく、主権在民の1人として立つことだ。

 主権在民とは、制度として約束されていることを意味するのではなく、制度を主権在民の1人として駆使しうるかどうかを問われる。圧倒的多数の人々が主権在民の意義についてなにも考えないのであれば、それは烏合の衆、なにごとも一致点を持たない群衆と同じである。宮沢氏の言葉は、日本人1人ひとりがあなた任せの古い封建思想を克服して、自立主体精神を持った人間に変わることを意味する。

 これは容易ではない。魯迅(1881~1936)は、1912年に中華民国が成立したとき、「封建清朝を破壊することは比較的容易にできたが、民主主義革命は大変な事業である。なぜなら、1人ひとりが民主主義精神の革命を起こさねばならない」と言った。破壊は、破壊の精神で一致すればできる。しかし、建設はなにをもって合言葉とするか。まして、民主主義となれば、1人ひとりが、自分が社会・国を作っているというしっかりした認識に立たなければ、社会も国もせいぜい私利私欲の現実的調整が限界だろう。それは、敗戦までの国・社会の気風とさして変わらない。

民主主義への変身?

 なるほど、敗戦から日本国憲法が登場する当時は、民主主義礼賛論がオピニオンであった。しかし、冷静に考えてみれば、敗戦までのオピニオンは忠君愛国・死して後打ちてしやまん・一億一心玉砕精神である。

 民主主義どころか、個人の存在に言及することでも国体(天皇制)批判・異分子・非国民と罵倒された。ところで、負けて兜を脱いだとたん圧倒的多数の愛国的知識人は、昔からこの道一筋の民主主義者であったかのように民主主義のオピニオンへと変身した。

 右翼・国家主義から民主主義に転向したこと自体が悪くはない。ただし、風向きが変われば巧みに思想を変える知識人のオピニオンが信頼されなくなるのは当然である。いわく、自分は騙されて戦争に巻き込まれた被害者だという弁解である。スピノザ(1466~1536)は、「自分は戦争に賛成ではなかったのだが、引きずり込まれてしまった、という仮面をはぎ取るがよい。言い逃れをかなぐり捨てるがよい」と痛烈な言葉を残した。

人々は日本国憲法を歓迎したはずだが

 日本国憲法登場の直後、政治家は天皇制が主権在民に変わったので頭がぐらぐらしたが、戦争放棄についてはさして驚かなかった。前者は、コペルニクス的転回というべきであり、政治における支配者と被支配者の関係が逆転したのだから無理もない。後者は、15年戦争にほとほと困窮し、しかも軍部の独断専横に苦い思いを飲まされたのだから、そんなものだっただろう。

 人々は平和と民主主義の憲法を歓迎した。というのだが、腑に落ちないことがある。他でもない。戦争の辛苦を考えれば、大日本帝国憲法が人々を臣民にしてくれたおかげであった。天皇主権から主権在民に変わったことは、驚天動地の嬉しい出来事であり、お上に動員されなくても国中に喜びの声が満ち溢れたと想像するのだが、そのような記述は見当たらない。

 戦争が終わった(敗戦)事実を知って、永井荷風(1879~1959)は、さっそく鶏肉で鍋をつついて祝ったが、たいがいの人々は茫然自失だったという。ここには、戦争の理解や、まして反省という言葉とは大きな隔たりがある。

 民主主義がいかなるものか、十分に知られていない。どんな理念で、どんな政治がおこなわれるかまったくわからない。なにしろ敗戦までの政治はきれいごとを並べているが、人々に身近なものではない。泣く子と地頭には勝てぬという表現は人々の気持ちに染みついている。

 政治については敬遠する。政治が身近に顔を出すのは徴税や動員や、負担ばかりであるから、日々、政治を意識しないですむくらい幸せはない。臣民から主権者に変わったという意味が直ちに敷衍したとは思えないし、かりにそうであっても、永年の専制政治の精神的習慣と、それに対する不信感は一挙に消えない。つまり、お上は敬遠するという処世訓が戦後も色濃く残っただろう。

 日本国憲法(民主主義)の大宣伝が展開されたが、それも従来の政治家(官僚も)が主導したのであり、民主主義という言葉が、人々に染みついた過去の経験を一掃しないのは当たり前だろう。

 民主主義は、従来のお上(支配者)と庶民(被支配者)の関係を逆転するものだが、主権在民の意義がしっかりと徹底できなかったと思われる。桑原武夫(1904~1988)は、ルソーの翻訳『社会契約論』の前書きに、「明治時代、中江兆民(1847~1901)が伝えたルソーの精神は自由民権運動の思想となったが、日本で十分根を張ったとはいえない。だから戦後、主権在民という言葉はいっとき流行したが、その真意は覚えぬ先に忘れられかけている」と述べた。同書は1954年に刊行されたので、憲法導入直後の傾向と考えてよかろう。

 主権在民への関心が薄くて民主主義が育つのは難しい。つまり、憲法制定直後に、人々の憲法に対する理解が十分ではなかった。その後も、国民的規模で主権在民の理解が進んだという事実は見つけられない。人々が日本国憲法を歓迎したのは事実だろうか、非常に表面的な感想であったのだろうか。

アパシー(政治的無関心)の歴史

 さいきんの選挙投票から見ると、ざっと有権者の半分がアパシー層だということになる。アパシーの中身を考えてる。

 前述のように、政治を敬遠する態度がアパシーの源流みたいである。信用できないし、厄介を抱え込む事態から離れたいのは人情である。つまり、こんにちのアパシーは、戦前から人々が受け継いでいる歴史的遺産であり、その中核は間違いなく不信感である。

 不信感にしても、自分が考えて批判する態度と、怪しいものには一切近づかないという態度があろう。前者が多かった時代には、政権与党は慎重さを失わなかった。この時期はだいたい1970年代くらいまで推測する。怪しいものに近づかないアパシーが増えたのは、1990年代のバブル崩壊後に著しい。経済悪化において、自己責任という言葉が振り回され、人々は孤立感を深めた。

 社会的紐帯意識が弱まると当然ながら得手勝手へ流れる。SNSなどの匿名性において、アナーキーな言葉というよりもバーバリズムがまん延する。匿名だから意見が述べられるというメリットがあるが、それは社会的紐帯を意識していてこそで、とにかく騒動が大きくなればよいという立場であれば、社会的紐帯を破壊する傾向が強い。実際、建設よりも破壊のほうがラクだし、破壊段階においては建設への展望は見いだしにくい。SNSおけるバーバリズムは、アパシーが破壊行動に結び付く例として注意が必要だ。

日本的民主主義の阻害

 怪しいものには近づかないにしても、バーバリズム的傾向にしても、対策の共通する鍵は、不信感の払拭である。バーバリズムは社会的紐帯に対抗するが、日本社会の穏やかさはまだ揺らいではいない。問題は政治において、社会的紐帯の大切さを感ずるような言動・行動が目立たない。

 日本の民主主義を阻害してきたのは、自由民主党が長く政権を続けてきたからである。単なる与野党の政権交代論ではなく、民主主義と政権与党について指摘しておかねばならない。

 自由民主を透明にしているが、自民党は非民主主義政党である。理由を簡単に絞って指摘する。

 自民党は国家主義の党である。国家主義は国家がすべての価値に優先するという立場だから、個人主義(利己主義ではない)の個人の尊厳=基本的人権を軽んじている。いや、明確に対立する。民主主義は個人主義である。自民党には、これを認めず、個人の上に国家をでんと構えたい人士が右往左往している。また、残念ながら官僚もこの傾向が強い。だから自民党と官僚は相性がよい。

 さらに、自民党的国家主義の上にはアメリカの意向がある。すなわち、日本国憲法を無視する自民党政治は、国家主義と日米同盟の2つによって構成されている。敗戦後の政治を概観すれば、自民党が憲法の民主主義と平和主義を一貫してボイコットしてきたことが歴然である。

 自民党が政権を掌握するかぎり、日本が差別問題改善で世界の優等生になる可能性はほとんどない。なんとなれば、差別を規定するのは差別されている人々であるのに、多数派が差別を規定しようとする。多数派が少数派の言い分の当否を決めるならば、差別は絶対になくならない。

 自民党は多数決の意味を取り違えている。最大多数の最大幸福というのは、多数決の結果がそうなのであって、多数派の意思に少数派が数で従わされことではない。議会での討論軽視は、ここから来る。

 自民党はなにがなんでも多数派を形成することが最大の戦略戦術であり、すべての政策審議は、すなわち政局優先である。政局にうつつを抜かすのは政治屋である。政治をおこなうのが政治家である。実際、圧倒的多数を占めているが、自民党に将来を託せるような品位と見識ある政治家がいない。

 日本国憲法は民主主義と平和主義であるが、実は、これこそ人々が求める国と社会のあり方である。民主主義を唱えて国家主義を進め、平和を唱えて軍拡に精出す。国民生活安定を唱えて、政府財政を破綻させる。これらが、結局は自民党の長期政権の結末である。

 戦争から平和と民主主義の日本国憲法が生まれた歴史は事実である。1960年代までは、平和と民主主義を高唱する人々の声が主流であった。平和と民主主義に暗雲がかかったのは1980年代以降である。皮肉にも、平和と民主主義が順当だと過信した気風が支配した結果、こんにちの事情を招いているのではなかろうか。

 「人間の尊厳⇒個人主義⇒基本的人権⇒主権在民⇒民主主義」は、いわば大きく1つの概念である。これは、西洋のルネサンスが生み育てた歴史の流れである。この思想は日本には不十分な形でしか発生しなかった。

 日本の得意は、外国の優れた文化を吸収し発展させることだという説もあるが、まずは、根源をしっかり理解することから出発せねばならない。脱亜入欧という言葉が明治時代に流行った。それは、即物的・皮相的に過ぎた。

 日本の民主主義を確たる歩みにするためには、倦まず弛まず学んで考えることが不可欠ではあるまいか。


 奥井禮喜 On Line Journalライフビジョン発行人/有限会社ライフビジョン代表/経営労働評論家/週刊RO通信発行人/ライフビジョン学会理事/ユニオンアカデミー事務局