週刊RO通信

これ匹夫の勇にして

NO.1497

 目下羽振りのよろしい主張は、――日本の安全保障政策、防衛政策は転換点を迎えた。「見たくないものは見ない」という日本社会のお家芸ではもはやごまかすことができないほど安全保障環境が厳しくなってきたからだ――ということらしい。

 たしかに、見たくないものは見ないという気風は強い。ところで見たくないものを見ている人々がなにを見ているのか。たとえば、中米関係を見る場合、米国を背中にして中国を見るのと、両者分け隔てなく客観的に見るのとでは初めから結論が決まっている。背中にした米国は見えない。

 安全保障環境が厳しくなったと前置きするが、目の前の動向を騒ぎ立てる割には、その背景・理由を探ろうという態度が見られない。それは、いわば「見るべきもの」であって、見るべきものを見ないのは、結局「見たいものだけを見る」のであって、「見たくないものは見ない」のと同じである。

 安全保障のためにさまざまな工夫をするのは当然である。しかし、防衛力とはいうものの武力に全面的に依存した安全保障策を推進するのは、すでに軍事国家と言わねばならない。防衛力とか抑止力、迎撃力などと修飾してみても武器とそのシステムである。軍事力によって安全を保障するとは、相手側の軍事力を完全に凌駕することであるが、まず不可能である。

 そももそ問題対応の視点が外れている。安全保障環境が厳しくなったのであれば、環境がさらに悪化しないように対処するべきだ。ところが、軍事力強化に、「転換点」というほどの力を入れるのは、環境悪化を食い止めるどころか、流れに棹差すことである。これでは危ない。

 人々の考えはどうなんだろうか。少なくとも、防衛力強化大賛成の声は聞こえない。様子見というべきか、実はなにが起こりつつあるのかしっかり把握できないという辺りではなかろうか。

 先日の新聞記事によると、若い人は、自分に関係ない、戦争なんかになれば海外へ逃避するという調子らしい。この種の発言は、1960~70年代にも少なくなかった。暮らすところは世界中どこでもいい。自分はどこでなにをやっても生活していけるという自信のある言葉ならば、それはそれで逞しさを感ずるが、本音は違うだろう。

 正面切って戦争をどう思いますか? と問われて一家言ある人が多いだろうか。理屈は省いて、率直な気持ちを言えば、「嫌」だろう。いかに体験がなくても戦争が嫌だという人は圧倒的に多いと思われる。嫌なのだが、さて、それをどう意思表示すればいいのか。さらに、嫌という気持ちと、戦争をさせないという発言・行動との間に距離がある。

 また、防衛力を強化したからといって、直ちに戦争になるものでもなかろう。政治家らが防衛力を強化して、国民の安全を守ると言うのだから、ならばやってもらおうということだろう。もちろん、そのような様子見がけしからんと批判するわけにもいかない。

 このように考えてくると、いつも突き当たる言葉がある。――自分は戦争に賛成ではなかったが、引きずり込まれてしまったという、その仮面をはぎ取るがよい。言い逃れをかなぐり捨てるがよい。(エラスムス)――かの15年戦争の後も、「騙された」という声は多かった。

 もう1つ。1945年9月17日のインタビューでの鈴木貫太郎(1867~1948)の発言である。鈴木は2.26事件で生き残り、ポツダム宣言を受諾した首相である。いわく、――軍略的に日米戦は不可能なんだが、戦争というものはおかしなもので誰も欲していなくても、自然の成り行きで起こることが多い。――

 この言葉を、権力者の1人のなんたる無責任な言葉か、と抗議したい気持ちを押さえて考える。もちろん自然の成り行きとは天変地異ではない。日米戦でいえば、彼我の力は歴然としていたが、STOP信号のところでGOを出したというわけだ。なぜかを語らぬ鈴木であるが、着々日米開戦への流れが作られ、雰囲気が出来上がった。誰も理性の声を上げなかったわけだ。

 見たくないものを見ている人たちへは、「戦争を知らない者の匹夫の勇」だということを申し上げたい。