週刊RO通信

なかなかケジメがつかない気風

NO.1490

 1990年代から、いつも思い続けて頭を離れないのは、わが社会の気風である。露骨にいうとシマリがない。

 すでに故人の某先輩が、1970年代の某会議で一言「ケジメが大事だ。将来のきみたちのために」と言われた。寡黙な人であったが、この言葉は決して忘れない。ものごとのスジを曲げてはならない。

 スジを曲げず、ケジメをつけるとはどういうことか。道理を通す。ものごとの首尾を一貫させることだ。オバマ氏が、どこかでdon‘t do stupid stuff(バカなことをするな)と語ったらしい。通底する言葉だろう。もっとも、アメリカも大概ちゃらんぽらんであるが。

 夏目漱石(1867~1916)『草枕』(1906)冒頭部分の「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という一節は有名だ。100年以上過ぎても、その通りであるから、これはわが社会の気風の真実を突いている。

 ケジメをつけねばならないときは、だいたい角が立つ。それは意地を通すことでもあるが、まあ、あまりこのような武勇伝にはお目にかからない。情に掉さす人は少なくない。自分が情に掉さすか、誰かが掉さすのかはともかく、流される人はわんさかおられる。SNSで、匿名の激しい議論があって炎上するのも、情に掉さす類だろう。

 開高健(1930~1989)『衣食足りて文学は忘れられた!?』を読んでいて「作家の内と外」(1959)に目が止まった。作家は、活力なき作家について嘆いている。いわく、「いまの日本に文学の像のないことが言いだされてからもう何年にもなる」「下降も上昇も絶えてない」「あらゆる方向への起動力を作家は失い」云々。ただし、当時はこんにちとは異なって、人々挙って本を読んだ時代であるから、作家が食べていきにくいというのではない。

 三島由紀夫(1925~1970)と武田泰淳(1912~1976)の対談でも似たような話題を論じたらしい。三島は、文学が衰弱したのは、「作家が敵を見失ったからだ」と語った。作家が、状況に対してアウトサイダーたることを止め、インサイダーになってしまった。漱石流なら、智と意地ではなく、情の世界に生きているという次第である。

 開高は、作家が追い求めるべき普遍的像がなくなって、一方、読者の価値観は文学論(固ければよろしいのではないが)というようなものではなく、「好きか、嫌いか」に収斂されている。かくして、衣食足りて文学は忘れられたか!? ということになる。なにやら身につまされる。開高さんの著作は少ししか持っていないが、くさくさしたときや、気分を転換したいときに、刺激を求めて手あたり次第に読む。

 刺激は得た。どうやら、わが問題意識であるシマリがないという気風は、すでに60余年前の開高さんの認識とよく似ている。さらに、漱石さんまで遡れば、わが問題意識は、アドホックな表面的現象というべきではなく、日本社会の1つの特質とみるべきではなかろうか。

 この特質は、持続的性格ではあり、行動規範みたいであるが、とはいうものの、これをエートス(ethos)と呼ぶほど上等ではない。水は低きに流れるという自然現象的で、人間社会が作り上げ受け継いできた道徳的慣習・行動規範というわけにはいくまい。

 1つ考えてみる。ある状況において、問題が提起されれば、そこには議論が発生する。議論が発生するのは、いろんな思想・視点があるからだ。政治であれば、どこかの政党において活動の根本方針たるテーゼがある。そうすると、他の党はそれに対してアンチテーゼをもって挑む。

 しかし、テーゼたるにふさわしいテーゼがないとすれば、アンチテーゼは成立しない。もともと、わが社会においては、なんとなくの社会的合意はあるようだが、なんとなくだから、なんとなくわかったり、わからなかったりするのであって、この、なんとなくは情との親和性が高い。換言すると、なんでも相対的に考えることを重ねているうちに実体がなくなってしまう。

 まことに厄介だ。服用する薬としては、立ち止まって考えるということくらいしか思いつかない。まことにシマリのない話である。