週刊RO通信

議会は烏合の衆に過ぎないか!

NO.1488

 敵基地攻撃能力を強化することがわが国の安全・防衛に唯一最大の戦術のような議論がまかり通っているが、まことに浅薄、軽佻浮薄の極みである。たまたま相手の攻撃意図をキャッチして、先手を打てば、こちらが先制攻撃することになる。つまり相手に、わが国を攻撃する口実を与える。

 相手が、恐れ入るわけはなく、必然的に戦争が開始する。狭い国土に多数のミサイルが飛来すれば、わが自衛隊がいかに優秀であろうとも、防ぎきれるわけがない。さかんに軍事力強化を叫ぶのが当節の流行だが、守ってもらっているつもりの人々は、ただちに戦火にさらされる。

 さて、人々はミサイルに対していかなる避難ができるだろうか。わが国の安全保障と大声疾呼しつつ、打ち上げ花火のお話ばかりしているのと変わらない。守るのは人々の生命のはずだが、シェルターはない。確実に避難する方策などまったく論じられていない。スマホのゲームとは違うのだ。

 おそらく、瞬発入れず同盟国が敵を凌駕する馬力でジャンジャンミサイルをぶっ飛ばしてくれるとお考えではないのか。そんなに調子よく行くわけがないと思うが、かりにそうなったら、世界大戦が始まる。とにかく、目下の防衛論議は粗雑にして荒く、まったく信頼できない。

 わが政治家は、そもそも丁寧な議論をする能力があるのだろうか。ものごとの本質に食らいついて丁々発止の論戦が交わされることなどまったく別世界のお話で、質問しても、正面から受け答えすることはまずない。すれ違いの議論ばかりを繰り返すのみで、中身がない。

 政治家が選挙戦では、国家国民のために一身を投げ打つような修飾語を使うが、実際の仕事舞台ではまったく仕事らしい仕事ができていない。学校教育で、議論というものは、議会で政治家のみなさんがおこなっているのをよき見本にしましょうと、先生方が教えられない。

 政治というもの、もちろんきれいごとではないが、少なくとも、議会という舞台でのやりとりは、中身のある堂々たる応酬がなければダメだ。きれっばしでしかない質問、時間稼ぎ目的の答弁、こんなものが常態化している議会人に、人々の命と生活を議論する資格などあるものか。

 民主主義の本質は、いかに価値ある理屈を発見するかにこそある。そうでなければ、多数派と少数派の関係において、多数派がつねに支配するのは当たり前である。多数派が人格識見に優れているなどありえない。選挙で勝つことと、立派な政見を押し出すことは完全に別物である。

 とりわけ危なくて見ていられないのは、安全保障・防衛などの論議において、声の大きい連中が支配的となる。安全保障環境が悪くなっているといえば、直ちにそれが軍事力強化、敵基地攻撃能力へ一直線だ。いかにして、武力衝突、戦争の危険を除去すべきかという本来の命題が無視されている。

 ここには、人格識見の低劣な連中の性癖が完膚なきまでに現れている。やられたらやりかえせ程度の見識しか持ち合わせていない。軍事力強化一直線は、安全保障に貢献するどころではない。はるかに弊害が大きい。その流れに身を任せること自体が安全保障を放擲することである。

 軍事力問題は、とかくイケイケどんどんになりやすい。ひとたびその流れができると、ちょっと待て、立ち止まって根元から考えようというような理性は吹き飛ぶ。戦争の歴史をみれば直ぐわかるが、威勢のよい、大きな声が圧して、つまりは思考停止状態になる。

 たとえば太平洋戦争で、海軍は戦争を欲しないが、表面に出てこれを言うことはできないという態度であった。長年にわたって艦船強化してきており、戦略的に具合が悪くても! それを堂々と言わない(言えない)。陸軍が開戦を大声疾呼しているなかで、弱い発言はできないというわけだ。

 戦後日本は、自衛のため、戦争をしないために防衛力を強化してきたはずだが、こんにちの様子は、まるで臨戦態勢の旧日本軍並みの感覚が、政治家の頭を支配しているみたいではないか。思想的主体性なき政治家は、激流に抗して正論をぶつ人がいない。流れに掉さす連中ばかりである。岸田氏はそのチャンピオンであり、流れに掉さし、かつ掉さされて流される。まさに、ダメになる日本の象徴的首相としてお立ちになっている。