週刊RO通信

野党は、野党の精神に目覚めよ

NO.1465

 新聞報道によれば、参議院議員選挙の序盤情勢は野党の劣勢が伝えられている。これは格別意外でもない。国会論議で注目を集める内容がなく、参議院議員選挙の公約も、いわば似たり寄ったり。となれば質はともかく大量の存在感・宣伝力を有する与党が目立つのは当たり前である。

 野党について、一言書いておきたい。ただし、政党・政治家という存在は、どこからどこまで本音なのか、作戦なのか、蚊帳の外からは容易に判断しにくいので、筆者の独断と偏見だとみられるのは仕方がない。

 野党第一党を狙う維新は、従来の「純粋」野党とはだいぶ趣きが異なり、体質としては自民別動隊である。「や・ゆ・よ」の区分の「ゆ」よりも、自民党派閥の一部というほうがしっくりくる。国民民主を「ゆ」とみるのは報道では定着している。玉木氏の微妙な発言からは「ゆ」は心外かもしれないが、社会通念としては、野党道をはみ出している。つまり、本論における野党は、立憲民主、共産、社民、れいわである。失礼ながらその他は欄外とする。

 野党の在り方として、たとえば国民は「対決(型)より解決(型)」を主張する。言葉としてはなんとなくわかる。メディアなどが、与党の意を呈してかどうかは知らぬが、野党は反対ばかりで非建設的だと喧伝するので、立憲も国民も、それを世論とみて、世論うけする立ち位置を模索した。それが、野党の野党らしさを奪った誘引だろう。国民は「ゆ」とされる位置に、立憲も「や」のパンチ力を失ったように見える。

 政治家・党も、なるほど人気商売であるから、世間体や気風に心を配るのは当然だが、人気のパターンを固めて、そこへ自分をはめればよろしいと考えるのはまちがいである。もし、人気の鋳型があるならば、人気者はどれもこれも個性がなく、面白みがない。人気ロボット、AI政治家(政党)というわけで、政治から人間味が消えてしまうにちがいない。

 野党らしさ、野党の真骨頂とはなにか。野党は、量において与党の後塵を拝しているのだから、着眼するべきは質である。ともすればマンネリ化し、惰眠を貪りつつある社会通念にピリッとした刺激を与えねばならない。これ、さほど難しいことではない。国家主義政党の自民党は、よくいえば懐深く、柔軟であるが、その戦略・戦術は角を立てず、敵を作らず、いわく八方美人的であり、居酒屋的政治談議路線を上手に守っている。

 岸田人気なるものに裏付けがほとんど見当たらない。自民党総裁選以来、「新しい資本主義」を標榜したが、そんなものは初めから大風呂敷に決まっている。「新しい資本主義」を提唱するような人物であればノーベル賞ものだ。マルクス(1818~1883)は、自分の経済学から一般性をもつ理論を引き出して、歴史に適用した。『資本論』以来150有余年、それに代わる大経済学が登場しない事情にあって、「新しい資本主義」を打ち上げてもはじめから中身がないのだから、いかにコピー時代とはいえ、これは騙りの一種である。

 「新しい資本主義」に限らず、大事そうな概念が提出された場合には、言葉の意味・意義をまずきちっと明確にしなければならない。そうでなければ、言葉はあるが中味がないものを巡って議論するわけだ。禅問答、こんにゃく問答、いや、威儀を正して中身のない政談をなさるものだから、清談の竹林七賢も驚く次第である。清談にせよ政談にせよ、当事者間だけで成立する話はつまらない。野党たるもの、政治的課題解決を求めて、ありったけの知恵を絞って理論闘争を挑まねばならない。絞り代は無限にある。

 そもそも自民党の政治的構えは、理想でなく、現実的でなく、場当たり的である。視点が理想主義にせよ、現実主義にせよ、理論をもって論じなければならない。一方、場当たり的のほうは、議論はどうでもよろしい。時間ツブシのおしゃべりでそれらしく形を作ればよろしい。このペースに乗ってしまえば野党本来のパワーを発揮できないのは当たり前だ。

 たとえば、過去30年間のわが経済成長は主要先進国間で抜群の最低、安倍公約のGDP600兆円など雲散霧消、黒田日銀のインフレ2%・2年などお話にならないホラというよりフェイク。「失われた30年」に、まるで本気がない。日本の危機は、なにが危機かということがまったく無視されている能天気にこそある。野党は野党らしい論戦を挑め。