週刊RO通信

野党は誇り高くあれ

NO.1449

 国民民主党の玉木氏が孤軍奮闘、人々の支持が高まるように苦心していると思われる。少党派とはいえ、党内には人物・政見が他を圧する人物がおられるはずである。結党は、鶏口となるも牛後となるなかれ、の精神であったと思う。泡と砕けてもらいたくない。玉木氏の焦りに見える行動は選挙に弱いからである。しかし、選挙に勝てばすべてよいわけではない。

 敗戦後77年になるが、わが民主主義はどうも迫力を欠く。有権者をみれば、政治に距離をおく気風・習慣が支配的で、アパシー(政治的無関心)が多数派だ。政治を敬遠する態度は封建時代並みである。地方によっては政治的ボス支配がカビのようにこびりついている。選挙買収や、後援会員の饗応的サービスが無くならない。ムラ意識が政治をねじ曲げている。

 おおかたの人々は、政治に対して受益者意識が強い。「人民の・人民による・人民のための」のうち、「人民のための」が突出している。すなわち、善政期待である。選挙に行かず、「どうせ変わらないから」というのは、善政=政治にサービスされることだけに関心がある。善政期待は、政治家を信頼している。「勝手」に信頼しているから、期待に反すると背中を向けたくなる。つまり、政治不信は、政治過信の裏返しといえる。

 「の」と「による」が極めて弱いのは、主権在民意識が未熟である。主権在民意識と受益者意識は別物である。ただしくは、主権在民意識が高まってこそ、人々はよい政治の受益者になられる。単に、受益者意識だけでは、支配者からおこぼれに与る程度でしかない。

 主権者が、大切な問題について、きっちり意思表示をしない。良きに計らえという調子のお大尽気分である。「どうせ変わらないから」意識は、政治に対するお大尽気分から発している。幇間は、お大尽を手玉にとるものだ。

 政治家も含めて、公務員は全体の奉仕者である。主権在民の人々の意思決定に対して奉仕する。主権者をサボってお大尽気分している全体に対して、無条件の奉仕をするのではない。主権者がサボっていれば、奉仕者もまた手を抜くというのが世間の常識だろう。

 野党が選挙で伸びない。伸びるのは、なんらかのブームを起こしたときだ。ブームは容易に起きない。野党は、人々に主権者として、主体的参加を呼びかける。人々の無意識の意識としては、これがうっとうしい。なにしろ、人々は日々暮らしの厄介であくせくしているからだ。

 一方、自民党は、猫なで声の「お任せください」が持論である。自民党は、そもそも日本国憲法が大嫌いである。たいがいは憲法第9条関連に焦点が当たるが、自民党の嫌いの本丸は「民主主義」そのものだ。ところが、海千山千の選挙巧者であるから、人々の前では、民主主義を称揚する。看板で安心させておいて、商品(政策)には、非民主主義を盛り込む。2012年自民党「日本国憲法改正草案」を読めば、自民党が、専制的民主主義*に極めて近い考えだとわかる。(*民主選挙で選ばれて専制政治をおこなう)

 自民党は、つまり、お大尽相手の選挙戦法である。選挙で選ばれたらこっちのものだ。当選すればなんでもできる。当選することに最大限のエネルギーを投入する。お立派な題目・理屈を並べても落選したのでは意味がない。理屈はダメ、耳障りな雑音は決して語らず、お客様は神さまです一本鎗。天晴な手練手管というべきである。

 主たる野党は、主権在民の有権者を想定している。当たり前である。ところが有権者には、主権在民の意識が薄い。それが現状である。求めているのは無病息災・日々安穏の暮らしである。与党が、形勢不利になるとバラマキ政策を展開するのは、この辺りの人情の機微に通じているからだ。すなわち、ポピュリズムと称されるものの正体である。

 野党が選択する道は2つある。Aは、ポピュリズム政党として、お大尽有権者のご機嫌を取ること。ただし、これは与党政治のトリクルダウンに与ることになる。Bは、未来に向かって、政治を投企する志を失わず、そのために、人々の主権在民意識を引き出す触媒としての効果を果たす。わが民主主義を実のあるものに育てる活動である。Aは消える野党へ、Bは輝く野党への道筋である。