月刊ライフビジョン | メディア批評

変質する「資本主義の精神」

高井 潔司

 6月下旬、山形までの長距離ドライブの際、高速道路に入る直前に念のため、ガソリンスタンドに行って空気圧を調べた。何と、右後輪がパンクしていた。ガソリンスタンドに修理を依頼したが、やっておらず、近くのタイヤ専門業者を紹介してくれた。車2台分の修理ができる小さな工場だった。いかにも職人さんという感じの50歳前後の2人で経営している工場だった。修理場の脇に待合室が設けられ、修理の様子が見えるように、仕切りの窓とその前にカウンターと椅子が設置され、無料のジュース、お茶の入った冷蔵庫もあった。小一時間、お茶を飲みながら、修理の様子を見ていたが、いかにも職人らしいてきぱきとした手際よい仕事ぶりは、気持ちがよかった。料金はというと2千数百円。3人分の御茶代を引いたら、自転車のパンク修理と大してかわらない。

 パンク修理が終わって、以前別のガソリンスタンドで、そろそろタイヤを買い替えた方がいいと言われていたので、交換の必要があるかと尋ねた。私の車はすでに10万キロを走り、タイヤはまだ一度しか交換していない。きっと交換しろというに決まっている、これから長距離ドライブというのに、野暮なことを聞いてしまったと思った。ところが、この業者、「タイヤに多少傷があるけれど、溝は十分あり、まだ交換の必要はないでしょう」と答えてくれた。山形への旅が控えていたので、この件はそこまで、「また来ます」と工場を後にした。

 7月中旬、友人の調査旅行協力のため、再び山形への長距離ドライブに出る必要が生じた。やはりタイヤのことが気がかりで、またこのタイヤ業者を訪れた。「また長距離ドライブなんで、そろそろタイヤ交換をと考えているんだが」と持ちかけたが、この業者、駐車場でじっくりタイヤを調べた上で、「まあ、ひと夏くらいは待ってからでいいのでは」と診断してくれた。というわけで、タイヤ交換はまた先に延ばすこととなった。

 その対応は、自動車産業に限らず、目先の利益のためにウソを言う、ばれなければ詐欺まがいのことだって組織的にやるという、日本の最近の企業の風潮とは一線を画していた。当たり前と言えば、当たり前のことだが、職人としてのプライドを感じた。

 そんな折り、「ビッグモーター事件」が明るみに出た。社長が記者会見して辞任を表明すると、連日、新聞をにぎわす騒ぎとなったが、当初はテレビやインターネット報道に比べ、新聞報道は慎重というか、様子眺め、発表待ちの姿勢だった。そこには不正を暴くという新聞社のプライドが全く感じられなかった。

 大新聞がこの事件をとりあげたのは、7月7日付毎日新聞が最初で、「ビッグモーター、全国で保険金不正 事故修理代水増し・故意に傷」だった。それは外部弁護士による特別調査委員会の報告書をビッグモーター本社が受領したという同社のホームページの記事が情報源だった。第二社会面のベタ記事という小さな扱い。しかも、それは共同通信の配信記事だった。翌日朝日が後追いしているが、こちらも第三社会面の二段見出しという間に合わせ程度の記事。読売は全く無視だった。読売も参戦して新聞各社が足並みをそろえて報じる様になったのは、7月15日から。記事は各社同様で、ビッグモーターが損害保険各社に報告書を提出し、損保各社が払い過ぎた保険金の返還を求める意向だという内容。その中で、ゴルフボールを靴下に入れて車体を叩いたりして不正請求したというショッキングな話も含まれているが、不正の件数、金額は不明という発表頼みの記事。毎日はこの日の記事も共同の配信記事だ。

 25日の社長の記者会見まで、各社とも自前の調査報道はなし。これは社会部の取材ではなく、問題意識の薄い経済部が担当しているのではないかと、勝手に推測した。損保会社は被害者然としているが、半ば共犯者ではないのか? そうした問題追及の姿勢が新聞論調からはうかがえない。

 最近の出来事で言えば、東京五輪の電通を中心とする談合事件、新型コロナワクチン業務をめぐる近畿日本ツーリスト過大請求事件など、ここ数年企業による不正事件が相次いでいる。企業としての倫理、信用無視の姿勢は、ビッグモーター事件とも同根である。一連の報道を見るにつけ、事件に問題意識の薄い新聞社も、同じ病に犯されているのではないだろうか。TBSの「サンデーモーニング」で、評論家の寺島実郎氏は「信用は資本主義の基礎であり、それを揺るがす出来事」とコメントした。同感である。

 社長会見でこの経営者は「ゴルフボールで車を傷つけるなんてゴルフ愛好者に対する冒瀆ではないか」と、他人事のように語った。そこには消費者や自社の社員に対するリスペクトや責任を全く感じることができない。

 生産者と消費者の間の信用の醸成こそ、自給自足経済から市場経済、資本主義へと発展する基礎だと、学生時代にゼミで読んだ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー著、翻訳は岩波文庫)で初めて学んだ時の感動を、久しぶりに思い起こした。


高井潔司  メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。