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戦争と人権

奥井 禮喜

 朝日新聞8月12日オピニオンのページに「ウクライナ 戦争と人権」というテーマで、政治学者豊永郁子氏の寄稿があった。触発されたので、一文を草したい。ただし、寄稿文そのものに対する意見ではなく、「戦争と人権」という言葉に関して書く。

戦争とはなにか?

 戦争は国対国の武力闘争である。国民としての人々が好戦熱に盛り上がって戦争せよと咆哮しても、国が踏み切らなければ戦争にはならない。戦争は開戦から停戦まで、一貫して国の事業である。

 「王様が戦争を始めて、始末するのは国民である」という。ところで、戦争が始まっても、自分が一切その影響を被らない戦争があるだろうか? ただいまのウクライナ戦争がかなりそれに近い。まったく影響がないわけではないが、まあ、日本人のおおかたは無関係である。

 プーチンの大軍が攻め入った際、俳優出身の大統領ゼレンスキー氏が「最後まで戦う」と宣言すると、ゼレンスキー氏の内外の評価は一挙ピークに達し、「民主主義のために独裁国家と戦う」と語ると、ウクライナは民主主義の橋頭保として立った。ウクライナの正義とロシアの悪との戦争という流れが盛り上がった。ただし、無関係の日本人の高揚は、戦争映画を見ているのと大差はない。いや、時々刻々報道されるのはドラマではなく事実である。「戦争は、戦争をしたことのない者にとって快い」(エラスムス)。

 そこには、ウクライナ国民が多数殺傷され(実際の被害はいまだわからない)国民の1,500万人、30%超が露頭に迷っていることの意味が、明らかに軽視されている。このままいくとウクライナ的1億玉砕にならない保証はない。

 戦闘員か非戦闘員かにかかわらず、国民の1人ひとりが国というシステム中に吸収されて行動するのだから、基本的人権は存在しない。好むと好まざるにかかわらず戦争は挙国一致である。国が戦争に踏み切ったとき、国家は最も国家としての相貌を現す。挙国一致という言葉は、人々の結合・連帯を表現するから、非常に麗しいようであるが、他方、戦争の容赦ない醜悪・残酷を美徳にすり替えて表現していると言わねばならない。

 正義の戦争だろうが、侵略戦争だろうが、戦争する国の内部では基本的人権は死んでいる。民主主義の橋頭保として立ったウクライナが、基本的人権を圧殺しているのは客観的事実である。そこでは、人々は文字通り国の手足にすぎない。いや、まさに戦争時の人々の生命は鴻毛より軽いのである。

 これは、主権在民の民主主義の敵としての国家主義と同じだ。正義の戦争をおこなう民主主義国もまた、戦争によって、敵と同じく国家主義に没せざるをえない。プーチン悪玉論で熱くなっているから、理屈を言っている場合かというわけだが、民主主義は理屈であって、理屈を無視するなら民主主義ではない。まして、正義の戦争であれば、後先どうなってもよろしいということにはならない。

 ここで、どなたにも考えていただきたい。民主主義を正義の旗印として高く掲げるのであれば、基本的人権が失われない状態をつねに追求することが、民主主義の王道を歩むことである。民主主義=基本的人権である。だから、理屈上は必然的に平和主義になるしかない。

 平和主義を掲げつつ、軍事力強化に精出すのは、明らかに矛盾である。人々は、安全な暮らしのために、国防力=軍事力強化をするべきだと考える。そこに、いざ戦争の場合に、自分が当事者だという問題認識があるのだろうか。誰かが国防を堅固にしてくれて、自分が安全な世界にいられるという、幻想にはまっている。

 自国の安全保障といえば聞こえはよろしい。ただし、それは敵を想定しているのであって、敵国とされた国は、ああそうですかと聞き流さない。そっちが軍事力強化をするなら、こちらはさらに上手を行こうと考えるのが普通だ。台湾問題で大騒動しているのは、軍事訓練自体が戦争と同義語だからである。

 戦争は、国家主義の事業であって、だから基本的人権は失われる。「戦争と人権」というように言葉を対置するのは正しくない。「戦争は人権を喪失する」と理解しなければならない。

国家主義と官僚主義絶対のプーチン

 プーチンは、国家絶対、国家主義絶対に自分の人生のロマンを懸けた典型的官僚主義のエリートである。国家絶対だから、官尊民卑は当然である。国家システムの官僚組織階段を上るのが人生の自己完結だと考えている。それがプーチンの力であり、ロシア的官僚政治のご本尊である。

 まさに、百万人といえどもわれ行かんの志だろうから、戦争が初期の目算と外れようが、わが兵士たちが死傷しようが、国に殉ずるのだから、最高の人生を後押ししている気持ちであろう。ガチガチの国家主義者は他国に心を許しあう隙間がきわめて狭い。関心があるのは取引で、握手するのは損得判断のみである。

 プーチンは、基本的人権の思想を持ち合わせていない。ひたすら目標貫徹に向けて命令するのみである。

 戦争開始以来、プーチンの人格が傍証されている。すなわち、彼はいわゆる「人間」ではない。世界秩序の大義のもとに、第二次世界大戦後アメリカが世界中でおこなった戦争、あるいは他国への介入、やりっ放しでも国連によって罰せられない。プーチンにすれば、アメリカなら是で、ロシアなら否はありえない。

 プーチンが臥薪嘗胆したかどうかは知らないが、営々と爪を研いで、待ちに待ったチャンス到来である。アメリカの横暴を本気で否定するなら、自分が戦争を仕掛けることはないが、アメリカ第一をロシア第一に置き換えて、同じことをやっているつもりである。

 そこには、戦闘員、非戦闘員問わず、戦争で傷つき斃れる人々に対する忖度や哀悼の気持ちはない。まさに鉄面皮、戦争政治を推進する冷徹な官僚である。世論についても、おそらくプーチンは歯牙にもかけないだろう。世論は幻、公共にせよ、多数にせよ虚構である。世論は破壊的であったり、高揚したりするが、所詮その本質は無であると考えて、確固とした意志(己自身)のみが事態を作っていくと考えているに違いない。いわば戦争を指揮する「ロボット」である。「官僚機構において、官僚機構の先頭に立ち得る者は、(人間としての)自己存在を放擲した者である」(ヤスパース)。この指摘の通りだ。

 アメリカの正義の戦争論は、そのままロシアの正義の戦争論である。自分にとって究極の意図するところは、戦争の場合、戦っているいずれの国も相手国にまけず劣らず高貴な絶対正義をかざす。戦争において、それぞれの正義論は絶対に融合しない。正義かどうか逡巡するようであれば、戦争にはならない。つまり、どこまでいっても闘争は闘争であり、所詮戦争は戦争でしかない。戦争に価値を感ずるのは一種の変態である。

 フランス・ドイツや、トルコが停戦和平の仲介を試みても、アメリカが高みから降りてこなければプーチンは戦争を続けるだろう。アメリカを軸とする西側が、ウクライナの方針を絶対尊重するとして、武器供与などを継続するのは、戦争を停止させるベクトルをもたない。そもそもアメリカは戦争ビジネスのお国柄である。これも非常に気がかりだ。

 停戦の条件は、アメリカが動くことと、中国はじめ第三世界の国々がそれに賛同することである。本当に民主主義を掲げるのであれば、ウクライナの正義の戦争論をよいことに知的サボタージュするのではなく、アメリカなど西側が積極的に行動せねばならない。足をつけねばならないのは基本的人権だ。

ゼレンスキー氏の場合

 いかに俳優出身とはいえ、ゼレンスキー氏が演じている政治家はテレビ・ドラマの主人公どころではない。1つだけ、豊永氏の文章から考える。いわく、――(世界の大スターとなった)ゼレンスキー氏は、まさにマックス・ウェーバーのいう、信念だけで行動して結果を顧みない「心情倫理」の人であって、あらゆる結果を慮る「責任倫理」の政治家ではないのではないか。――

 簡単にいえば、心情倫理とは、正しきをおこない、結果を神に委ねるのであり、責任倫理とは、与件しうる結果に対して責任を負うと整理する。

 マックス・ウェーバーによれば、倫理的に善い目的であっても、倫理的に危険な手段と副作用を正当化できるか? ——これは選択の課題であるが、証明不能であろう。

  (純粋の)心情倫理は、道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するしかない。一方、暴力の絶滅のために暴力を使うことが、果たして有効であるかどうか。軍事力で平和を作るという矛盾・倒錯した理屈が、われわれの世界を覆っている。軍事力はどこまでも破壊と殺戮の力である。だから核抑止論は倒錯した論理である。これはすでに分かり切った理屈ではないのか。

 ところで、ウクライナ戦争を見てもわかるが、心情倫理と責任倫理は握手しない、正確には容易に握手できないというべきだ。NATOのなかで、ちらちら見解の違いが見えるが、心情倫理と責任倫理を論理的にスパッと処理するのは無理であって、それこそ、まさに政治的決断をするしかない。

人間の1人として考えれば

 マックス・ウェーバーは、キリスト者たる1人の人間が殺されたくないが、そのためには殺すしかない状態に放り込まれた場合のルター(宗教改革者)の選択を指摘している。いわく、――(ルターは)個人を戦争に対する倫理的責任から解放し、その責任を国家に負わせ、信仰以外の問題で国家に服従することは罪にならないとした。――と指摘する。

 戦争で戦う兵士にすれば気持ちの拠り所になるだろうか。たしかに歴史は、神を称えつつ殺人・破壊をおこなう事実を記録している。しかし、これはご都合主義である。問題は、国家が暴力行使という手段を握っていることから発しているのであり、それを無視、当然とすれば、また最初に戻るが民主主義を根底から覆すものである。

 もちろん、1人ひとりの魂の救済を政治に求めるのはナンセンスである。ルターのごとく、戦争責任を国家の事業として個人にはないというのは、要は、各人が人間として存在することを断念するのと同じことだ。

物と人間

 苦い思い出がある。1968年1月、筆者は原子力空母エンタープライズの佐世保寄港阻止運動に参加した。エンプラは、寄港予定を1日遅らせたので、われわれは予定通り市内デモや佐世保球場での5万人集会を終えて散会した。集会の閉会に際して、主宰者が、「この闘いを職場で、地域で持続してくれ」と締めくくったが、なんとも肩透かしを食らったようなものだった。

 それから30年以上経て、たまたま神田古書店の二束三文の中から、小田実『人間・ある個人的考察』(筑摩書房)の中の「エンプラ反対 『物』と『人間』佐世保1968年1月」を読んだ。

 エンプラは、世界最大の不沈空母、艦載機100機、後楽園球場面積の2倍の飛行甲板、原子炉8基の30万馬力、キャデラック1台を2.5キロ吹っ飛ばすカタパルトが15秒ごとに艦載機を発射する。建造に要した鋼材6万トン。75,500トンの巨大な物である。乗員6,000人余。

 ベ平連の小田さんは、デモ隊が帰った後、入港したエンプラの周囲での海上デモで3トンの船上から、艦上の米兵にベトナム戦争反対のスピーチをおこなった。巨大な物の阻止ではなく、人間が人間に語りかけた。ベトナム戦争の意味を自分で考えてほしいという呼びかけだ。市民が平和裡に駆使できる武器は言葉だ。彼はいう、入港阻止は不可能でも、事情を訴えて、共感としての兵士の上陸阻止は可能だった。英語のビラを兵士たちに手交することも十分にできる。

 筆者が参加したデモは、手段が目的化した。そこには、人間が人間に語りかけるという発想がそもそも欠落していた。物に対して頭数を誇示したところで、なんら運動の質的進展はない。お粗末であった。そして、考えない物に対して、考えられる人間が考えず、単なる頭数として行動しただけだった。

 戦争は物の戦いである。そこでは、人間が兵士という物になる。基本的人権どころではないのだ。

人間としての闘いこそ

 戦争は基本的人権を破壊する。いや、逆に考えれば、デモクラットとしては、民主主義の土台としての基本的人権を人々が自家薬籠中としていないがために、戦争が発生するというべきではないか。

 アンリ・バルビュス(1873~1935)『クラルテ』の主人公シモン・ポーランは、41歳で志願して戦場へ行った作家自身である。シモンは戦場体験を語る。そこでは、組織を体現する上官が「命令だ! 命令だ! 知る必要ないんだ」、「つべこべしゃべるのは止めろ。お前他たちのやることは他にある。それは沈黙と規律だ!」というわけだ。

 シモンは、大衆は力であるのに、無力だということを痛烈に感じた。戦争から帰ったシモンは、「僕は取るに足らない人間で、以前と全然変わっていない。だが、ぼくは真理への欲求を持ち帰った」と語る。「見るために目を、判断するために頭をもちながら」一向役立たせていなかったじゃないか、という反省だ。人類の利益はひとつしかない。道徳的義務も真理もひとつしかない。それに向かって生きて行こうとする。

 ナチの強制収容所へ捕縛された医師ヴィクトール・フランクル(1905~1997)は、まさしく奇跡的に生還を果たした。彼の述懐である。

――人間はなんらかの定型=類別=鋳型にはめられやすいが、非定型的であろうとする人はいる。ナチ親衛隊員の収容所長がポケットマネーでクスリを収容者に与えていた。ゲシュタポの高級官吏が毎晩家族に悲惨な事実を話して涙にくれていた。被収容者のユダヤ人が仲間や病人を散々痛めつけていた。つまり、道徳的意味において種族などは存在せず、あるのは「まとも」か、「まともでない」かではないか。――

まともな人間は、おそらく少数派であろう。しかし、「まともでない」ことを切望する人間もまた少数派のはずである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人