月刊ライフビジョン | 地域を生きる

台本のない演説が聴きたい

薗田碩哉

 およそスピーチなるものが、あらかじめ書いておいた原稿を読み上げるだけになってしまったのはいつごろからだろうか。もろもろの会合の挨拶から始まって、講師の講話も討論会の論者も用意の原稿を読み上げることが普通になった。お役所を覗くと、○○委員会から××審議会まで、始めに口火を切る司会者からして「本日はお忙しいところご参集いただき、まことにありがとう…」という原稿を読み上げている。せめてそれくらいは生の発言で行きなさいよと言いたくなる。その後の流れを見ると、経緯の説明から決定事項の提案まですべて原稿読み上げ、質問は?と思うと、これがほとんど「異議なし!」の一声。「異議なしと認め原案通り承認いたします」という原稿を読み上げておしまい。議会を覗くと、これまた質問する議員の質問も、回答する官僚たちの回答も一部始終が書き込まれていて、それを時々読み違えたりしながら延々と読み続ける。わが町の議会から国会まで同じ朗読会風景が繰り広げられている。

 忘れがたい経験として、多摩地域の社会教育委員の研究集会でのシンポジウムがある。1つのテーマについて4人の論者がこもごも語り、それについて討論するという運びだったが、各論者の主張が原稿読みだったのはまだ許せるとして、その後の討論までが、司会のセリフから発言の順番、意見と反論まで、ぜーんぶシナリオ通りだったのは驚きかつ呆れた。この台本を書いた方は大変だったとは思うが、それぞれの論者がその場で他の意見を聞いて触発され、丁々発止やり合う生の討論とは程遠い、盛り上がりに欠けるシンポジウムだったのは言うまでもない。プラトンの饗宴(シュンポシオン)は、葡萄酒を飲み回して気炎をあげながら哲学談義をしたという故事を思い起こしてほしいものだ。

 台本を読むだけならお芝居と同じことだ。それなら役者たる自覚を持って事前に台本を読みこんでよくよく理解し、本番では思い入れたっぷりに気を入れ、心を込めて読んでもらわなければなるまい。ところがどなたも「棒読み」で、起伏も迫力もなく、話者の思いがちっとも伝わって来ない。それどころかまともに読めずに、読み間違いをするに至っては、しかも本人は全く気付かず読み続けていたりするのだから、実はなーんにも考えていないのがよく分かる。原稿も本人が準備したのではなく、誰か下僚に書かせているに違いない。原稿を準備する方がだいたいエライ人より有能だから、教養人らしい難しい言葉を書いたりすると、ご本人はとんでもない読みをして物笑いの種になる。麻生大臣はこの手の逸話に事欠かないのは周知の事実であろう。

 極め付きは安倍前首相の天皇交代時のスピーチだろう。2019年4月30日、「退位礼正殿の儀」において、退位される平成天皇に向かって国民代表として挨拶を述べた安倍前首相は、締めの「末永くお健やかであらせられますこと願って已みません」というところを「…願っていません」と読み上げてその場を唖然とさせた。その後何とか取り繕ったようだが、これは安倍氏が「已みません」という原稿の文字が読めなかったことを示している。「已む」という字を知らず「巳年」の巳(已と違って左上の隙間がない)だと思って「みません」と読んだのだろうと筆者は推測する。「みません」では「いません」と聞き違えられても無理はない。もしかすると安倍氏の強権国家主義をよく思っておられなかった(と拝察される)平成天皇への安倍氏の本音が思わず吐露されたのかもしれない。

 人の集まる場は一期一会の生(なま)舞台である。そこでの発言はその人の人格を掛けた生きた発言でなければ聴く人々を動かすことは覚束ない。また、その場でのやり取りは事前の予想を超えて思わぬ方向に進み、相互の対立や協調を生み出しながら新たな知見に向かうのである。正―反―合の弁証法の生きたプロセスを実現するのが委員会であり議会であり研究会の存在理由ではないか。すべて誰かが用意したシナリオ通りに進む予定調和の世界が好まれる風潮は、管理社会もここに極まれりというべきだろう。

 かつて3分間スピーチというトレーニングが流行ったことがある。3分間で一つのまとまった話をする。それも原稿を書いて読み上げるのなど論外で、組みたてを考え、骨子と肉付けに気を配り、自分の身体からおのずと湧き上がってくる言葉を駆使し、聴衆を見回しながら堂々と語るのである。日本の教育の場では、生徒や学生が自らの意見をまとめて語る訓練が圧倒的に不足している。小学生のころから折に触れてスピーチに取り組み、人前で話すことを楽しむ能力を培う必要がある。職場でも地域でもいろんな場面に登場するスピーチをもっと面白く、気の利いたものにする国民運動を起こしたい。話し合いを楽しみ、議論を身のあるものにする努力から、真の人間的なコミュニケーションが育ち、まともな社会が生まれるのだから。

 このところ国政選挙で盛り上がっている。テレビやラジオはもちろん、街中にも議論の声があふれている。毎度の風景だが、1つだけいいと思うことは、街頭の候補者はみな台本なしで語っていることだ。原稿片手に読み上げている人は見たことがない。もっとも内容は自分の名前と「お願いします」の連呼が大部分だが、彼や彼女なりに全身全霊で語っていることは間違いない。願わくはもう少し選挙民の判断材料になるような政策を台本なしで語ってもらいたい。それが語れないご仁は候補者になんぞ立つべきではない。11月には新たに選ばれた選良たちが国会の議場に参集するだろう。彼らはまたぞろ、誰かに書いてもらった原稿を読み上げて「討論」をするのだろうか。

【地域のスナップ】【地域に生きる 2021年11月】

 町田市が鶴川団地の商店街の一角にある小さな図書館を潰しにかかっているので、それに対抗した「図書館大好き祭り」に取り組んで今年は3回目。あいにくの雨になり、商店街のアーケードの下でいろいろな出し物を楽しんだ。ピエロの小父さんは元銀行員。子どもたちの喜ぶバルーンアートに余念がない。

◆ 薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。