月刊ライフビジョン | 論 壇

組合的・習慣を見直してみよう

奥井礼喜

 人間のすべての活動は、いわば習慣(custom)の積み重ねである。ひごろ、習慣について考えることはあまりないだろう。習うより、慣れろともいう。はじめおっかなびっくりでやっていた仕事に慣れて、いまの自分がある。

 一方、慣れてしまうと感度が鈍くなって大事なことを見逃すケースもある。組合活動では、かつて「組合員の無関心が大問題だ」とされていたが、慣れてしまえばどうってことはないわけで、いまや、話題にもならないみたいである。もちろん、目下の組合活動が活気あふれるものではない。

そこで、習慣というカテゴリーを持ち出して、日常を考えてみれば、なにか発見があるのではないか。――これが小論の狙いである。

習慣の発生

 人間の世界は、想像すると、太古の時代から驚異的な変化を遂げている。人間が他の動物とは異なって、自然界に働きかけて、作る力を持っていたからである。火の発見は偶然だろうが、他の動物は火を使う生活へ入らなかった。社会は、言葉があるから成り立つが、他の動物は言葉を使う生活に入らなかった。(動物も言葉を有するという研究はあるが、人間の言葉と同列には考えない)

 言葉の発明と社会の発明は、いずれが先行したかはともかく、いずれが欠落しても、こんにちの世界は存在しないだろう。たまたま2人が出会った。きっかけはわからないが、なにかを共同しておこなった。それきりであれば、言葉も社会も発展しないが、2人の活動が継続した。知らずしらず、1人よりも2人のほうが好都合であると体感したことが積み重ねられて、こんにちの世界がある。

 言葉もその場限りであれば発展しない。両者をつないだ言葉を忘れずに継続したから、どんどん言葉が増えていく。言葉を作ることも、使うことも、思索する行為を育てる。やがて、人は言葉によって考えるようになった。感覚だけでなく、言葉で思索して、言葉で記憶する。言葉で記憶するから行動をふり返る。ふり返る行為が反省という概念を生み出した。

 反省するから、もっと好都合の状態を思いつく。いまよりも、好都合の状態が目標である。目標は反省から生まれた。人間の進化は、「反省→目標→行動→反省——」の無限の循環をくり返してきた。人間が、思索することを生活に採り入れたことが、社会の進化の原動力になった。

 行動が継続する。これが習慣の原型だろう。赤子が次第に周囲の大人をまねて成長する。個体としての習慣、社会としての習慣、いずれも、親世代から子世代へと伝わる。親世代の習慣が、子世代に批判され、拒否されることもある。親(正)・子(反)の摩擦・葛藤が新たな習慣(合)を作り出す。意識するかしないかはともかく、歴史は、「正反合」のくり返しである。

習慣の規定

 習慣とは――しきたり、ならわしである。人間はつねに行動する。行動のほとんどは、同じことのくり返しである。パスカル(1623~1662)は、「習慣は天性である」と主張した。あるいは、「習慣は第2の天性である」と主張する向きもある。どちらでもよいが、いずれにせよ、行動する人間は習慣の動物である。わたしという人間は、習慣が作り上げた作品という表現もできる。

 20世紀後半あたりから、生活習慣病という言葉が定着した。身体を動かす習慣を身につけましょうと言われると、とたんに習慣が重たくのしかかる。手を洗う習慣というのも、他者に言われると面倒くさい。挨拶する習慣と、もったいを付けられると、大きなお節介だと思う。こうしてみると、自分の習慣は、無意識であっても、選別した行動の集積みたいである。

 「人間は習慣の動物である」。習慣は、その人が選別した行動である。人の習慣を観察すれば、人柄がわかる。いちど習慣化した行動を変えるのは簡単ではない。部屋を乱雑にするパートナーに、「片付けてよ」と注文してみれば直ぐわかる。関係が悪化する確率は非常に高い。

 1980年前後、途上国で事業を開始した多くの企業は、現地採用の従業員の教育に苦労した。特効薬だったのは、本社にもないピッカピカの従業員食堂を作り、食事マナー(手洗いから容器の片づけまで)を向上させ、工場内の整理整頓、技能技術教育へとプログラムを進めた。いまなら笑い話であろうが、習慣はまことに偉大である。

習慣を評価する視点

 勤め人の習慣としては、仕事第一である。仕事がお気に入りであればよろしいが、生活のためでなければこんな仕事をやるものかと思っているとすれば辛い。気持ちに不適な仕事をしていると、職場生活自体がつまらない。職場の人間関係もおもしろくない。職場を離れても、切り替えが効かない場合が多い。

 仕事は我慢だ、賃金は我慢料だと割り切るのも1つの方法である。しかし、仕事は日々の生活の大部分を占めるから、1日24時間がパッとしない気分に支配されやすい。平社員だけではない。パワハラを起こす上司の精神をのぞけば、我慢がちょっとしたきっかけで破裂しやすい。「明るい職場」という言葉がお飾りになっているが、職場の人々が我慢第一だからである。

 パワハラがよろしくないという理屈がわからないバカはいない。にもかかわらず、社会的に大問題であり、アンチ・パワハラ研修などをいくら開催しても役立たない。そもそも、本人にしてもパワハラすることが趣味ではない。他に不満の原因がある。だから、「明るい職場」という概念を無視するのは大間違いである。問われているのは職場文化・職場風土である。

 元気よく、「おはよう」という挨拶から始めようというがごとき、トンチンカンなかけ声運動は、ますます事態を悪化させる。元気を訓練から引き出すなどは、旧帝国陸軍の頽廃的文化である。敗戦後76年にもなるのに、このような意識状態が残っている。習慣的活動をくり返しているから、何年過ぎても、「明るい職場」が作られない。(職場)習慣を本気で変えなければならない。

 習慣は、見方を転ずれば秩序である。職場の秩序が乱れてはまともな仕事ができないが、個人を圧迫・抑圧するような秩序が習慣化しているのでは、元も子もない。不祥事が露見する企業の職場は、悪しき秩序が支配している。秩序が乱れていないから、問題の本質が外からは容易に見えない。

 組合は、「働き方」の元締めである。「明るい職場」という目標の最大責任者は組合である。敗戦後作られた組合は、「職場の民主化」を掲げた。組合が元気であって、職場団交と称して管理職を吊し上げた時代もある。経営側も隙あらば組合を潰してやろうと虎視眈々であった。(こんにちも、組合潰しを画策する経営者が少なくないが、これは1990年代以降に再登場したのである。)

 1970年代前後から、「職場の民主化」が「明るい職場を作ろう」というコピーに代わった。60年の三井三池争議を転機として、全国的に労使関係が安定へ向かった。働く人々が、金持ち喧嘩せず的に豊かになったわけではない。敗戦から遠のき、高度経済成長のトリクルダウン効果があった。また、労使関係者がよく勉強して、労使協議が進んだ。

 組合における研修活動は、役員や職場委員段階に止まらない。組合員多数が組合主催の宿泊研修活動に参加した。それは、こんにちから考えると、「明るい職場」をかなり実現していた。仕事や職場に不満がないのではなく、不満があれば各人が積極的に発言した。組合活動についても、組合員が執行部を「突き上げる」のは日常茶飯事であった。

 ささやかな話だ――支部役員のわたしが現場をうろついていると、「おい、御用組合!」と声がかかる。とっさに「なんですか? 御用組合員さん」と応じた。顔見合わせて大笑いである。組合員2000人が働く工場を、午前と午後、用事がなくても見て回る。職場へ出るのは、実は、相手から声がかかるのを期待している。立ち話が2時間にも及んだことが少なくない。時間賃金の時代である。

「執行部はよくやってくれる」なんて言葉は下心以外の何ものでもない。御用組合などと穏やかならざる声をかけてくれることこそ、最大の組織活動(organization)である。面識があれば、お話を考えて、こちらから仕事の邪魔をする。組合活動が活力を喪失したのは、役員と組合員の言葉のやりとりが減ったからだ。不満だろうが、文句だろうが、ぶつけてもらえば大成功だ。

 74年から本部役員になったが、あちこちの支部へ出かけると、必ず現場を案内してもらう。組合員が支部役員に対応する雰囲気を観察すれば、よく活動しているかサボっているか直ぐにわかる。人間はつねに行動する存在だが、組合もまたつねに行動しなければ組合活動ではない。パソコンの前に鎮座するなど、組合活動ではない。組合活動は現場にこそある。仕事の邪魔をせねばならない。

 当時は、人事マンも事務所の椅子を温めているような手合いは役立たずだ。経営側も組合側も、「現場を知る」「人を知る」のが鉄則である。それが軌道に乗らないと、職場で発生した問題について、労使協議しても単なる空中戦である。

 機関紙活動や、たまの会議で組合活動をしている程度の習慣であれば、組合活動のほんの入り口だ。UAゼンセンは、組合作りで赫々たる成果を上げている。組織化する行動は最高に難しい。ゼロから有を生むのである。組合が組織されても、また、日々組織化活動である。立ち止まったら組織化は後退する。

習慣のしたたかさ

 あるコミュニティの秩序と習慣は、コインの表裏である。秩序が大切なのは、人間が行動するからである。じっとしているだけなら、格別秩序を問題にする必要がない。電車内ではじっとしているのが秩序である。自分のとんでもない欲求を実現するために行動されてはけしからんが、組合活動を元気にするためには、行動を起こして既存秩序を打破せねばならない。

 世界はつねに動いている。ある瞬間に主体と状況がうまく合致したとしても、目には見えないが、主体と状況は直ちに離反し始める。これは、真理である。こんにち、組合活動がお世辞にも盛り上がらないのは、組合という主体が状況から大きく離反しているからである。たとえば、「右vs左」「民間vs官公」の対立関係が典型的である。

 そもそもこれらの対立関係は、連合が立ち上がるまでのものである。民間で働こうが、官公庁で働こうが、勤め人としての事情は同質である。民間は商売で稼ぎ、官公庁は税金で成り立つが、雇用されている立場はまったく同じだ。一方は会社を出れば1市民である。他方もまた役所を出れば1市民である。職域が異なるが、地域では同じ立場である。

 市民としての立場を共有する雇われ人が、市民=人間として生活している事実を見失っている。換言すれば、雇われ人たることが市民たることを軽視している。働くことが社会秩序の基盤であることは当然だが、人は、雇われ人たる以前に個人的生活をする市民だという事実を本気で見つめなければならない。

 組織というものを変化させるには、トップを変える・人を変える――ことが手っ取り早いというのが組織理論である。連合歴代会長は、山岸・芦田・鷲尾・笹森・高木・古賀・神津の7氏である。8代目に芳野氏が先日就任した。芳野氏は試運転中だ。先輩7氏の30余年には、連合一枚岩が達成されなかった。大組織である。会長1人に全責任を負わせる気は、もちろんない。

 当然ながら、会長以外の役員もじゃんじゃん変わった。しかし、依然として「右や左の」習慣が生き続けている。組織理論は、きっちり間違いだ。習慣こそが組織・コミュニティの支配者である。しかし、これでよろしいのか! 労働4団体時代の欠陥を改め、新しい日本的労働運動を構築するために、労働戦線統一で大騒動したはずであった。

 組織理論が間違っていると書いたが、理論を活用駆使するのは「人」(集団)である。連合の力は、産別の力の総和だ。産別の力は、単位組合の力の総和だ。単位組合の力は、組合員の力の総和だ。賃金の使い道に困っているほど組合員は豊かではない。連合を始め、産別も、単位組合も、古手の石頭はとっくに放逐されたのではなかったのか。時はすでに来ている。

運動の法則

 なぜ、好ましくない習慣がいつまでも続くのか。既存の組織におけるポストというものは、前任者から引き継ぐ。新任者は、前任者がおこなっていた活動を見習って活動する。ただし、このままであれば、たとえ100年過ぎようとも、習慣はしたたかに継続する。至極当然の理屈である。

 かつて、組合役員選挙では、現体制批判を引っ提げて立候補する人が少なくなかった。あるいは、批判でなくても、「ここを改善したい」として名乗りを上げた。もちろん、状況はつねに変化して止まらないのだから、前例踏襲を掲げたとしてもまったく同じではないが、大きいところの習慣は、性根を入れて変えようとしなければ変わらない。

 労働戦線統一は、組合員のみならず、働く人々の期待・要求に基づいて、労働運動を盛んにする狙いであった。戦後の労働運動は76年になる。そのうち連合運動は32年、ざっと4割の期間を占める。しかし、労働戦線統一前の、労働4団体当時よりも盛んになったとは言えない。

 単位組合でも、役員の人材供給が大変だ。決定的に先細りしている。もし、ユニオンショップ制とチェックオフ制がなければ——と考えると、うそ寒い。あるべき方向性はすでに明確である。前任者がおこなってきた事業をそのまま継続するだけならば前途は開かない。組合員参加の活動を再建しなければならない。過去からの習慣を変えねばならない。

 「習慣=運動を変える」のは容易ではない。そこで、物理学でいう運動の法則を頭に叩き込んでおきたい。

 第一法則 静止または一様な直線運動をする物体は、力が作用しないかぎり、その状態を持続する(慣性の法則)――これが、まさにそのまま現状に当てはまる。春闘依存主義がそれである。

 第二法則 物体の運動量の変化は、これに働く力の向きに起こり、その力の大きさに比例する(ニュートンの運動方程式)――力を駆使するのは「人」である。人が、変化させるための力を発揮しないかぎり、変化は発生しない。

 第三法則 2つの物体が互いに力を及ぼし合うときには、これらの力はつねに大きさが等しく、方向が反対である(作用反作用の法則) 現状は、変えたいAという力と、現状維持のBという力が均衡している。A>Bを確立しなければ現状は変わらない。

 理屈はまさに前述の通りである。なにかを変えようとして行動を起こすと、その作用に対して、必ず反作用が起こる。変化を推進しようとする力があれば、それを抑止しようとする力もまたある。推進力>抑止力が決定的となったとき、ようやく変化が表面化する。

 抑止力は、前例踏襲であり、格別悪意なのではない。組織においては、上部からの指示に基づいて、多くの人々がまじめに活動している。それが組織における人の存在理由である。ところが、推進力がそれを変えようとする。いわば従来の存在理由が否定される。人間は習慣の動物である。無意識のうちに反発して、大きな抑止力を形成する。

 だから、推進力たるためには、できるだけ多くの人々の理解と納得を作らねばならない。多くの先進的リーダーの志が半ばで潰えたのは、人々の十分な理解と納得を生み出す地平まで進みえなかったからだ。

 組織(たくさんの人々)を動かす変化を整理すれば、――① 変化させるべきだとする知識・見識がまず発生する→② 個人が変えようとする態度変容を起こす→③ 個人が行動する→④ 集団の行動へ発展する――のであるが、少し考えるだけでわかるように、個人の態度変容は大きな決断である。行動するのはさらに、清水の舞台から飛び降りるくらいの決心・覚悟が必要であるし、集団に転移するのがもっと難しい。

 革命は、全コミュニティにおいて、習慣を断ち切る運動である。歴史をみれば、ほとんどの革命が流血騒動を起こしている。習慣を断ち切るために、物理的な力(武力)を駆使するのが手っ取り早いが、必ず反革命が起こる。反革命が容易に片付かないと内戦が長く継続する場合が多い。いつの間にか革命自体が目的化してしまう。

 本当の革命は、過去の習慣を断ち切って、新しい習慣を創造していくことである。物理力は手っ取り早いが中味がついてこない。時々刻々、日々に小さな革命を積み重ねたほうが、おそらく確実だろう。

 すなわち、コミュニティの人々が、つねにオープンに本音を語り合えることだ。社会が形成されたのは、コミュニケーションが成立したからである。日常的なコミュニケーションが発達していないと、悪しき習慣をよい習慣に変えられないのである。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人