月刊ライフビジョン | 論 壇

「世界は舞台、男も女もみな役者」の今日的意義

奥井禮喜

粗にして野でも卑にあらず

 どなたさまもご存知のように、この数年、ひどい政治がおこなわれている。わたしも痛感する。政治について話していると、語気が荒くなるようで、それ自体が腹立たしい。しかし、語気荒いのはひどい政治に対するのであって、品性下劣のゆえではない。政治家諸君が、中身空疎、羊頭狗肉、看板に偽りありの美辞麗句を並べることは、徹底して侮蔑されなければならない。(と、また語気荒くなるわけで、冒頭からまことに申し訳ありません)

 今回は、かかる面白くもない時代状況において、ともすればそれに背中を向けたくなるけれども、そうではなく、うまずたゆまず状況と対峙していくための「元気の要素」を考えてみたい。

覚悟して生きる

 シェークスピア(1564~1616)『お気に召すまま』には次のような会話の場面がある。(阿部知二訳)

 ―― 老侯爵 わかってもいようが、ただわれらだけが不幸なのではない。この限りなく広い世界という舞台は、このわれらが演じておる場面よりも、はるかに痛ましい光景を示しているのだ。

 ジェイクイズ 世界はすべてお芝居だ。男と女、とりどりに、すべて役者にすぎぬのだ。――

 「世界は舞台、男も女もみんな役者」として知られた名せりふである。舞台は世界であり、人々の人生の縮図である。これは西欧では古代から中世、近世へと一貫して流れるメタファーである。人生には浮き沈みがある。人生の浮き沈みは神の思し召しだから、如何ともしがたい。覚悟して生きようという。

 実際、年末年始ともなれば神社に詣でて家内安全・無病息災を祈願するのが日本的風習だが、なかなか神さまのご利益がない。かくして、人生を乗り切っていくためには「耐力」が必要だ。

 古代ギリシャの詞華集(ブチャー 1850~1910)には、

 ――すべては灰、すべては空

泣きながらわたしは生まれた。あくまで泣いて死ぬ。

多量の涙においてわたしは全生涯を見出した。――

 それが紀元前5世紀あたりになると見事に転回する。

 ――世界はすべて舞台である。人生は遊技である。

まじめさを捨てて遊びをすることを学べ。

しからずんばなんじの苦痛を耐えよ。――

筋を通す

 ギリシャ人は事柄の意味を識別して、その諸関係を理屈づけようとした。ブチャーは「それが彼らの本能であり、情熱であった」と高く評価した。

 古代ギリシャ最大のデモクラット為政者とされるペリクリス(前490~前429)は「われわれは信ずる。討議は行為を害さない。禍はむしろ最初に蒙を啓かずして仕事を始めることである」とし、プラトン(前427~前347)は「論理が導くところであれば、どこへでも進もう」と語った意気軒昂である。

 当時のギリシャ人は言葉巧みな演説家に対しては「不信用」の態度を示した。だから、人々に向かって演説する人は、見栄を繕わず、1つひとつ静かに丁寧に語りかけたというのである。聴衆の姿勢は、必然的に騙り手を、まともな語り手に変えるエネルギーをもっている。

理想を手放さず

 さらに時代が下って、ホラティウス(前65~前8)は、警句を発した。

 ――祖父母に劣れる父母 さらに劣れるわれらを生めり

われら遠からずして より劣悪なる子孫をもうけん――

 これは自分たちを卑下して冷笑主義に徹したのではない。われわれの時代は過去のすべての時代に優っていて当然である。生はパンタ・レイ(panta rhei)、有為転変であるから、変化は進歩にも退歩にも向かう。だから、心して生きて行こうという警句である。

明治が胚胎した野蛮性

 わたしたちが生きているいまを立派で優れた時代であるとは到底いえない。とはいえ、150年前の明治の一新以後、野蛮人が先進文明国の道具を駆使して、暴力で他国を従わせようとした敗戦までの事情と比較して、さらに劣るというような次第ではない。

 たまたま権力を握った連中が乱暴な政治をやっているが、たとえれば先端技術高性能のバイクを乗りこなす能力がなくて、ひたすらアクセルをふかして暴走しているのとよく似ている。不埒な暴走族が事故を起こして悲惨な目に遭うのは彼らの自己責任である。問題は、そうでない真面目な人々が、暴走するバイクをただ目撃している立場なのか、そうではなく、自分たちもバイクに同乗していると考えるのかの違いがあることだ。

社会の心に背馳する政治の根源

 なるほど、真面目な人々が暮らす社会と政府は異なる存在である。社会の形成を想像すると、それは、人々が、よりよい暮らしをするために形成したはずである。一方、政府は、社会における不都合を解決するために作られたはずである。たとえば悪いことをする輩を取り締まらねば社会の秩序が乱れるから、政府は社会の秩序維持のために作られていると考えられる。

 ところが、政府が大きくなって、その本来の目的を無視して、為政者が政治権力を乱暴に扱うような事態が発生すると、今度は、政府自体が社会秩序を乱す根源になってしまう。だから、政治権力=政府は法律に基づいて、その範囲内で仕事をしなければならない。そこで憲法が権力を縛ることになっている。

 もともと政府で働く人々が尽くすべき対象は、社会を形成している市民1人ひとりである。しかしながら、わが国においては、政府で働く人々において、市民の公僕(パブリック・サーバント)であるという意識が決定的に欠落している。それは明治の一新以来の極めて悪い伝統である。

 まことに遺憾ながら、公僕に公僕意識がなく、逆に市民を支配する意識が強い。敗戦までの政治家・官僚は「お上」であった。「お上」をてっぺんまで突き詰めていくと天皇に至る。

天皇制の悪用

 しかし、わが国の天皇は為政者に担がれているだけで、直接政治を采配したのではなかった。為政者は愛国心を気取り、天皇に対する忠誠を語っていたが、実は天皇制を隠れ蓑として利用し、自分たちが好き放題の政治をおこなったのである。

 実際、歴史を手繰れば尊王思想なるものはか細い伝統でしかなかった。戯画化していうならば、安物の見世物で生計を立てている連中が、心の内では見世物のお粗末さを熟知しているけれども、それで生計を立てているゆえに本気で見世物をやっているように見せかけるのと同じである。そして、他方では人々に対して苛斂誅求の押し付けをやったわけだ。

国民主権の大きな意義

 敗戦後は、天皇は象徴天皇に変わった。デモクラシーは天皇主権ではなく、国民主権である。政治家・官僚の主人が天皇ではなく、国民に変わったのである。しかし、国民諸兄が相変わらず政治を「お上」がやることとしている限り、政治家・官僚が「自主的」に公僕意識を培う可能性は極めて低い。

 デモクラシーにおいては、国民1人ひとりの政治意識が政治の質を左右する。暴走族が運転するバイクを見ているような気風である限り、デモクラシーが育つことはない。国民主権、わたしが政治の主人公だという気概を、国民1人ひとりが確立しなければならない。政治屋暴走族を止めるのはわたしである。

 第一次世界大戦が終わったのは1919年である。オルテガ(1883~1955)が「現代は風潮の時代であり、漂流者(drifter)の時代である」と分析したのは1930年代であった。それから10年弱で第二次世界大戦が始まった。

 戦争をするのは国=政府同士である。それぞれの政府が国内向けに敵国の非を並べ悪口雑言を繰り返すのは当然であるが、実は、本当の戦争の原因はそれぞれの国内にある。なんとなれば、国内政治が巡航軌道に乗っている場合に国内で戦争の機運が発生するわけがないからだ。

 もちろん、いま戦争が始まるという恫喝的表現をするのが目的ではない。いまのような国内政治が乱れる状態は、必然的に国際関係を悪化させる最大の原因であることを指摘したいのである。

権力の乱用に対して

 権力の乱用が続く場合、権力を行使する連中の正当性を問わねばならない。単純な話、意識調査で内閣支持率がガタンと落ちれば、張子の虎諸君の鼻息は一挙に止まる。なんとなれば彼らは、長期的な見識をもって政治をしてない。所詮、政治的オペレーターであるから、自分たちに対する厳しい視線を感じれば直ちにへなへなと崩れていくのは目に見える。無知な幼子と同じで、叱られるまでは何度でもバカな行為をするのである。

 自由な法治国家においては、憲法が権力を縛る。その憲法は国民各位に依拠するのであって、政治家が自由気ままに権力をふるうことは許されない。いまの「お上」は昔とは異なって、張子の虎である。

 国民1人ひとりが、この気概をもつだけで社会の雰囲気はがらりと変わる。

役者としての意味

 西欧でデモクラシーが育ったのは、1人ひとりが役者だということに気づいたからである。役者とは、わたしが、ある人物の演技をするのである。無意識に「わたし」しているのとは異なって、わたしが「ある人物」の演技をするのである。「ある人物」がどんな人物かを決めるのは、「わたし」である。

 たとえば、知っていて悪漢を見逃すような役をわざわざ自分で選択するだろうか。声を上げるべき時にひたすら沈黙を守るような役を好む人がいるとはとても考えられない。

 「世界は舞台、男も女もみな役者」が意味しているのは、自分が聴衆ではなく、いや、聴衆であっても、自分もまた聴衆を演技しているということである。優れた芝居は、舞台と聴衆が一体化する。面白い、優れた芝居を見たいのは誰しもであろう。気に入らなければブーイングをかまさねばならない。

 西欧でデモクラシーが芽生えたのは、「わたし」が、「わたしを見つめているわたし」に気づいたからである。これが、後々、デカルト(1596~1650)の「我思う、ゆえに我あり」(cogito, ergo sum)になるのであり、さらにカント(1724~1804)のコペルニクス的転回につながる。すなわち――認識は、主観が客観に従うのではなく、主観こそが客観を構成している――という真理を導いたのである。

 変えられない(政治的)状況なんてものはない。不都合な現実は変えるべし。程度のよろしくない政治をしている政治家は程度が低いのである。程度の低い連中に従わねばならないほど、わたしの程度は低くはないはずである。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人