月刊ライフビジョン | 論 壇

外交には「性根」が大切だ

奥井 禮喜

 安倍氏が臨時国会(10/24)所信表明演説で、「戦後日本外交の総決算」を掲げた。「新たな日本の国創り」も主張した。

 これらの言葉は看板があっても、その定義づけが全くない。加えて、遺憾千万なことに安倍氏の言動には信頼がおけない。なにしろ議会での論議の内容がないのがすでに明明白白である。これが、いわゆる悪い意味のポピュリズム=衆愚政治というものだ。

 今回は、対中国関係についての日本外交を考えてみる。

敗戦から1960年代までの日中関係の清算

 1972年7月22日北京で、公明党の竹入義勝委員長が中国の周恩来首相と会談した。3時間に及んだ会談の記録によれば、周恩来首相はすでに日中国交回復の意志を明確に固めており、田中角栄首相の本気度を確かめようとしていたようにみえる。

 竹入委員長は「田中首相は佐藤政治に決別したいという決意をもっています。いままでの保守党の政治と決別したいという決意をもっています」と明確に語りつつ、「決意が実効されるかどうかはこれからのことです」と続けた。国内で日中国交回復に反対する勢力が力をもっているからである。

 周恩来首相は(ニクソン訪中の密使であった)「キッシンジャーは、日中友好に反対するかと聞いたら反対しないと答えました」と語った。そして、田中首相、大平外相の決意、言動に十分な信頼を表明した。

 だれが日本国内で邪魔をするか。自民党総裁選で田中に敗れたが、佐藤直系の福田赳夫氏は「(自分は)1960年代の佐藤ではない」と語っているから反対しないだろう。問題は元首相の岸信介や賀屋興宣辺りの画策である。彼らは決定的に反共産、2つの中国論者である。

 周恩来首相が「岸は大きいこと(反対)はできないがかきまわすでしょう」と語ると、竹入委員長は「岸はそういう人です。日中国交回復ができれば岸はダメになるでしょう」。周恩来首相「佐藤より岸のほうが陰険ですか?」。竹入委員長「そのように思います」。

 竹入・周会談では、共同声明の内容も討議された。

 周恩来首相は、「毛主席は(戦争)賠償請求権を放棄すると言っています。清の時代(日清戦争)には2.5億両、日本に賠償しました。(賠償金のための重税で人々は困るから)負担を日本人民にかけるのはよくない」

 竹入委員長は「お礼の言葉もありません」と万感込めて感謝した。これは日本にとって最大の懸案であった。

 話が前後するが、中国は前年の10月25日に国連加盟を果たした。台湾は国連を脱退している。明けて72年2月15日にニクソンが訪中し、米中関係は改善方向に進んでいる。(中米国交樹立は79年1月1日である)

 周恩来首相の基本的見解は次の通りであった。

 「日本と中国は戦後27年ですが、秦の時代から2千年もの友好があり、この27年は一瞬のようなものです。田中首相は日中両国に平和五原則*に基づいて国交を結ぼうとしています。まったく賛成です。平和条約も可能ですが、平和友好条約にしたいと思います。このなかに平和五原則を入れればよいと思います。武力ではなく、話し合いによって解決するというふうにすればよいと思います。アメリカもソ連もそれは反対できません」

 竹入委員長が田中首相に周恩来首相の考えを伝えた直後、8月15日に帝国ホテルで田中首相は、上海歌舞団団長として来日していた孫平化・中日友好協会副秘書長、肖向前・中日備忘録貿易弁事処東京連絡処首席代表と会談し、訪中の意向を伝えた。

 訪中して、田中首相・大平外相と周恩来首相・姫鵬飛外交部長による「日中共同声明」が出されたのが1972年9月29日であった。今年は日中国交正常化から46年、日中戦争が開始して81年目に当たる。

 共同声明後に、もっとももめたのが日中航空協定である。中国は、台湾機の「中華航空」を「台湾航空」に、「青天白日旗」を他のマークに変更するように要望した。大平外相は、① 日台間にはナショナルフラッグのJALを就航させない。② 台湾機の東京以外の日本寄港を認めないが、東京からの以遠権は認める――という腹案で対中国交渉に臨んだ。

 日中国交正常化の際、日台間実務関係を維持するという了解であるから、台湾機の乗り入れ拒否はできないと、大平外相は主張した。議論のなかから、「日本は青天白日旗を国旗ではなく商標とみなす」談話を発表することで決着した。

 しかし、台湾ロビーの反撃は猛烈なもので、倒閣運動に発展する勢いであったが、大平外相は断固として揺るがなかった。自民党に80人の欠席があったが、衆議院本会議は全会一致で日中航空協定の締結について承認した。74年9月29日、東京・北京間にJALと中国民航機が初就航した。

日中関係全盛時代

 日中平和友好条約が締結されたのは1978年8月12日であった。福田赳夫内閣・園田直外相のときである。国交正常化から6年を要した。その間、日中両国共に内外に厄介な事情を抱えて、正常化から平和友好条約締結へと一気呵成には進めなかった。(文化革命の終盤の1976年、周恩来氏、毛沢東氏が相次いで亡くなった。鄧小平氏が再度復活した。)

 日中国交正常化を田中角栄首相と共に推進した大平氏が、1978年12月7日、福田首相の次の首相に就任した。

 大平首相が訪中したのは、1979年12月5日であった。

 先立つ11月30日、大平首相は国会で「隣国中国との間の良好にして安定した関係の維持・発展はわが国外交方針の主要な柱であります」と答弁した。

 11月1日、来日した中国マスコミ代表団に、大平首相は「中国人民に宛てた書簡」を託した。これは翌2日、『人民日報』が第一面に全文紹介し、同5日には『人民日報』が「大平首相の訪中を熱烈歓迎する」社説を書いた。

 12月5日、大平・華国鋒会談後の夕食会で大平首相は次のように述べた。

 「両国は政治的信条・社会体制を異にすることを確認した上で、今後いかなる場合にも、また遠い将来においても、相互理解と信頼に基づく平和友好関係は変わらないことを確認したい」

 6日、大平・鄧小平会談では、大平首相が「対中経済協力三原則」を説明した。その際、大平首相が「中国の将来をどのように描いているのか」を問い、鄧小平副首相が「四つの現代化」**について、中国人民の「小康」社会をめざすのだと応じた。大平首相は、池田内閣の所得倍増計画について紹介した。

 (1988年に来日した際、鄧小平氏は竹下登首相に対して、「大平首相の示唆を得て、今世紀末所得4倍増計画を決めた」と述懐した。)

 7日、大平首相が政治協商会議礼堂で、外国首脳として初の演説をした。その要旨である。

 「最も大切なものは、国民の心と心の間に結ばれた強固な信頼であります。一時的なムードや情緒的な親近感、さらには経済の利害、打算のみの上に日中関係の諸局面を築き上げようとするならば、所詮、砂上の楼閣に似た、はかなく、脆弱なものに終わるでしょう」

 そして、鑑真和上が753年に来日した故事や、日中両国が2千年来の友好往来、文化交流をしてきたことを語った。

 8日は、大平首相がかねて希望していた西安の秦始皇帝の兵馬俑坑博物館を見学した。沿道40kmに歓迎の旗を振る人波が続いた。

 10日の『人民日報』は「中日友好邁向光明的未来」の見出しを掲げた。

 この熱烈歓迎は、単に大平氏個人に対するものではなく、日中の人々が光明的未来に向かおうという気持ちの表現であり、わたしは、当時を思い出すと清々しい心地になる。

 大平首相は、1980年5月16日に、内閣不信任案が可決され(自民党69人が欠席して、243対187であった)、大平首相は衆議院を解散した。6月22日の衆参同日選となった。

 5月27日から華国鋒主席が来日し、首脳会談などが終わり、30日に華国鋒主席の歓送式がおこなわれた。大平首相はその後、新宿での街頭演説に赴いたが体調異変で倒れ、一時、小康を得たものの6月12日に亡くなった。

 中国政府は、大平首相が友好的関係醸成に尽力したことを高く評価して、大平氏の死を悼み華国鋒主席を団長とする弔問団が来日した。

日中友好にかける大平氏の信念

 大平氏の日中友好の原点は、なによりも、そのきちんとした歴史認識にある。

 大平氏は、日中戦争当時に興亜院(1938~1942)の蒙彊連絡部に勤務していた。興亜院の院長は内閣総理大臣である。連絡部は、華北・華中・厦門と、蒙彊の4カ所にあった。連絡部のトップから主要な管理者は軍人が占めていた。中国での戦線が拡大して動きが取れなくなったなかで、中国大陸の占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するのが目的である。

 興亜院での勤務が、大平氏の真っ当な贖罪意識につながったと考えても的外れではあるまい。それだけではない。首相所信表明演説では、環太平洋の連帯を唱え、地球共同体の人類として、防衛力だけで安全を守るのは不可能であり、内政と平和環境を構築する政治の大切さを訴えたのである。

 その柱ともいうべき中国との友好関係を築くことは、大平氏の信念であった。

これからの日中関係は?

 朝日新聞が「日中平和友好40年 主体的外交を練る契機に」という社説(10/22)を掲げた。論の入り口は「隣り合う異質の国情」と書く。

 大平氏が外相時代に「日本と中国は大みそかと元日のような関係ではないか」と語ったとして――大みそかと正月では人々の気持ちも街の景色もガラリと変わる。日中の関係もこれに似て、隣国ながら、大きな相違点が多々あると言いたかったのだろう――と推測する。

 「中国異質」説の枕に大平氏の発言をもってくるのは大いに違和感がある。

 大平氏の「大みそか・元日」は、高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」にちなんだ表現だと、わたしは思う。

 去年と今年、人は目に見えない断層を感じるが、実は格別の違いがあるわけではない。虚子が、それを一本の棒のようなものだと論じた。

 読書家で、中国と日本2千年の歴史に思いを馳せ、地球共同体論を掲げた大平氏が、日中の大きな相違点を指摘したかったとはとても考えられない。大平氏は中国の人がよく使う「一衣帯水」を「棒の如きもの」としたのであろう。

 論説子のような解釈をすると、日中関係の前進に政治生命を賭けた大平氏の「性根」が、わからなくなってしまう。日中関係は一本の棒のようなもの、あるいは、そうあるべきだと確信するからこそ、とりわけ党内の阻止勢力が半端ではなかったにもかかわらず、大平氏は日中外交に邁進したのである。

 安倍氏はもともと、どう見ても、岸・佐藤の時代の中国観である。この点、中国首脳が安倍氏を交渉相手として確固たる信頼を置くことはまずない。中米関係が大変だから日本に秋波を送っているというような安直な見方がマスコミを支配しているようだが、日中国交正常化当時とは事情がまったく異なる。

 そもそも中国の対日観は、一貫して、日本が米国外交に絡め取られずに、自主外交ができるか(できないだろう)という視点である。

 安倍内閣が「主体的外交」をできる態勢にあるだろうかと問えば、わたしは、「ない」と答えるのみである。したがって「戦後日本外交の総決算」なるスローガンは、最悪の場合、「戦後日本外交の解体」を招きかねない。


 * 平和五原則 1954年、周恩来首相と、インドのネール首相が共同声明で掲げた5つの原則。① 領土・主権の尊重、② 相互不侵略、③ 相互不干渉、④ 平等互恵、⑤ 平和共存。

 ** 四つの現代化 工業・農業・国防・科学技術の4つを現代化する。1956年周恩来が提唱した。

 鄧小平は、これをさらに。1980年を基準として20世紀末までにGDPを4倍増し、1人当たりGDPを1,000ドルにする。これをもって「小康」水準とすると目標化した。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人