民主主義革命ならず
ざっと100年前の中国は、次のような事情であった。
1911年、漢民族が武昌に挙兵して満州族の清朝を倒した。
革命の中心人物は孫文(1866~1925)である。翌12年1月に孫文が臨時大総統に就任して共和制を宣言した。中華民国が成立した。民主主義革命である。
しかし、民主主義勢力はひ弱であった。すぐに北洋軍閥の袁世凱(1859~1916)に初代大総統を譲らねばならなかった。孫文らは袁世凱らの軍閥の専制政治に反対し、19年には中国国民党を組織、さらに21年に誕生した中国共産党との第一次国共合作を進めた。
孫文が掲げたのが「三民主義」である。「民族・民権・民生」で、これは24年に国民党の政綱となった。帝国主義列強からの民族の独立(民族)、民主制(民権)の実現、平均地権(土地改革)・資本活動の節制(民生)を唱えた。
孫文はその翌25年「いまだ革命は成功せず」の遺書を残して死去した。
国内は群雄割拠である。民主主義の潮流と封建的・強権勢力が衝突して、まさに混沌としていた。
27年、国共合作が破れた。国民党は支配権を確立するために、共産党に対する血の粛清を始めた。この年、蒋介石(1887~1975)の南京政府が成立した。蒋介石の国民党は、孫文のそれとは全く異なるものであった。
奴隷たるか自由人たるか
魯迅(1881~1936)は、『狂人日記』(1918)で中国文壇にその位置を占めたのであるが、彼の視線は常に中国民衆の今と未来に注がれていた。
小説の作品はあまり多くない。一方、短い文章、今様コラムが膨大に書かれている。時世を嘆き、人心を思えば、書かずにはいられなかった。
25年2月12日の一文である。
「私は何もかもすべて新しくやり直さなければならぬように思う」
「……私は民国のできた根本が、実はもうとっくにボヤけてしまっているように思うからだ、まだ14年しかたたないのに!」
このように書いた魯迅の気持ちの核心を表現するのが、次の文節である。
「私は革命以前に奴隷であり、革命以後あまり長くたたないで、奴隷に騙られて、彼らの奴隷になったように思う」
辛亥革命によって、4千年の封建時代の長い洞窟を抜け出て、いよいよ新しい時代を開拓するときが来た。魯迅もきっとそう感じたであろう。しかし、国内は混乱を極めている。
魯迅は、国民党政府の要注意人物で、国共合作が破れた後は、国民党政府ににらまれて、極めて身辺不自由であった。彼の社会における人間観は「自由」にある。権力は、自由を語る知性人がことさら邪魔なのだ。
「革命以前に奴隷であった」という認識は、さすがだ。わたしは、この文章を読んだとき、いままでわが国の民主主義前後(敗戦前後)の記述を読んだなかに、このように短い表現で民主主義とそれ以前の気持ちを対照した認識を見出した記憶がない。
というよりも、明治の一新を日本的民主主義の始まりとする論調が多い。もちろん、一新の前と比べれば、それは大いなる進歩である。
しかし、根本的に明治の一新が民主主義の考え方に転換したのではない。専制政治において臣民の自由度がそれ以前より増えたからといって民主主義の始まりとするのは論理的ではない。民主主義と専制政治はまったく違う。
明治の一新を「日本的民主主義」と規定するのが、自民党的理屈解釈である。彼らが明治への憧憬を派手にやるのは、民主主義を否定することはできないから、明治の専制政治の中身が民主主義だとごまかしたいわけである。
敗戦までの責任を、軍国政治を推進した軍部に押し付けた。しかし、軍部を生み出したのは明治以来の専制政治である。親(専制政治)が子供(軍国政治)を育てた責任をほったらかして知らんふりするのは正しくない。
だから、戦争はこりごりだ、真っ平ご免だという戦争体験者が少なくなるのと比例して、民主主義に対する気持ちが希薄になってしまう。国内では戦争被害者だったのであって、奴隷であったという認識が乏しいからだ。
毎度夏が来ると、「戦争を語り継ごう」のオンパレードだ。もちろん、それ自体、わたしは賛成である。しかし、語り継ぐも何も、時間が来れば戦争体験者がいなくなるのは当然である。
なぜ、戦争がわるいのか。なぜ、民主主義が不可欠なのか。これを各人が考えねばならない。ただ語り継いで、哀悼の意を示すだけでは形式だけである。本当に大事な中身がない。中身がないことを何度繰り返しても効き目がない。
そもそも敗戦当時の人々は、民主主義とはまったく無縁に生きてきた。突然、民主主義が登場したのである。問題は、魯迅が書いたような煮詰めた認識を誰もがもったのかどうかである。失礼を顧みずいえば、奴隷から解放されたのだと認識した人は決定的少数派であったに違いない。
敗戦後73年の今年、わが国の政治を牛耳っているのは戦後の民主主義社会に育ちながら、基本的人権の原則すら理解しない連中である。(自民党には基本的人権を真正面から拒否する人が少なくない)
魯迅の時代のようにズドンを一発お見舞いされないかもしれないが、昨今の社会では、公的施設において、民主主義に関連するイベントをのびのびおこなえない。一方、政治家が憲法に違反する発言を堂々とやる。
憲法や政治を談ずることが政治的性質であって、公共施設の使用にふさわしくないというのは、すでに専制政治に戻っている。魯迅の時代には、料理屋・居酒屋に「莫談国事」(国事を語るなかれ)と貼りだされていた。今は、それと同じに見えてくる。
「公正・正直」を掲げれば、首相個人の人格攻撃だと唱える連中がいる。そのように直結させることが、すでに、首相の「不公正・不正直」を認めたことと同じだという認識がないのは大笑いである。大笑いであるが、ここまで権力者に追従する連中が政界を漂っていることを思えば、笑ってはいられない。
ネットのバカバカしい叫喚を見る気がしない。そこでも、実に無理が通れば道理が引っ込むような書き込みが大流行だ。大新聞も含めて、それらが権力の提灯持ちだから情けない。
「サムライ」を唱えるのが好きな国民性だが、どうせ好きならば、サムライらしいサムライを意識してもらいたい。本物のサムライとは「勇気ある者が憤怒すれば刃を抜いてもっと強い者に向かっていく」のであって、諸君がやっているのは「卑怯な者が憤怒すれば刃を抜いてもっと弱い者に向かっていく」のであってみっともない。
社会と心の平静
まあ、どなたさまも今の社会が円転滑脱に動いているとは思われまい。
町へ出れば傍若無人の自戦車に眉ひそめずにはいられない。危険である。ご本人が一所懸命に急いでおられると思って放念するように心がけているが、引っ掛けられそうになったりすると、やはり心穏やかではいられない。所構わず自転車を置くのも然りだ。
そこには、「頼れる者は自分のみ」の苦渋が滲んでいるようにも思える。大都会は、なにしろ人が充満していて、「Keep your distance」と叫びたくなることが少なくない。問題は、町へ出れば、すべて人々が自己閉鎖的な存在に見えてしまう。
世の中には、わたしと、数えきれない他人が存在するという事実を見つめ直したいと思う。とはいえ、道徳・倫理を掲げたいのではない。
他者のことを考えるとか、一歩譲るとか、このような気持ちがないと社会は殺伐としてくる。殺伐とした社会では、ますます気持ちが荒んでしまう。思うに、人々は気持ちの余裕がないのである。
昨今(厳密にいうと相当以前からなのだが)、新聞や本を読まないという説が一般的である。読むという行為は、それなりに時間も集中力も必要である。つまりは自分の積極的行為である。
見方を変えると、誰もが「読む」行為にくたびれているみたいである。職場では上下左右の気持ちを読む。感情労働なんて言葉があるが、人間の生活はすべて感情生活である。自戦車の方々が歩行者の気持ちを読んで走行するならば子供のお出迎えに遅刻するかもしれない。そうなると子供もだけれど、保育園の先生方の気持ちを逆なでするかもしれない。
あちらの心証を読み、こちらのご機嫌を損ねぬように気配りする。こんなことを毎日繰り返している。周辺を「読む」ことが多過ぎるのであって、新聞や本を読むところにまで手が届かない。いまや、新聞や本を読むのは「ぜいたく」と呼ぶべき行為かもしれない。
あるいは、新聞など読んで、さらにイライラするくらいなら読まぬほうがマシだという有力な説もある。イライラの最大原因は「懐疑」する気持ちが湧くことである。「そんなこともある」「あんなこともある」と見過ごせるようなものであれば構わないが、「いったい、これは何なんだ?」と考えるようになれば往々にしてイライラの原因になる。
そこで、「読まない」の次は「忘れる」である。何でもどんどん忘れていけば、間違いなく呑気に生きられる。おそらく、満州事変(1931)から、日中戦争本格化(1937)への過程は、当時は、極めて不親切な記事であるし、読んで詳細を検討するなんてことはしない(できない)から、次々に忘れていった。
一方で、生活はどんどん逼迫し、不自由になる。呑気者でも切実に社会の影響を受けていることがわかる。こんな具合に真綿で首を絞められるのは、中国の背後に米英があって、こいつらが権謀術数を連ねているからだ――というわけで、1941年12月8日の真珠湾攻撃、対米英開戦によって、もやもやしたものが吹き飛んでスカッとした、という心地になった人が圧倒的であった。
いささか強引だけれど、今日ただいまの自分が何とか平静を保てていればよろしいという繰り返しをしていると、気がつけば「エライこっちゃ」という社会になりかねない。
過去への回帰
誰しも無病息災・家内安全を望んでいる。それは当然である。しかし、世間をリアリズム的に眺めれば、人間の運命は、深いところで極めてドラマチックであり、悲劇的であると考えるほうがよろしい。
テレビや小説で過去の英雄豪傑の粉飾された人柄を楽しむのはもちろん構わない。しかし、そのような人物を生み出した社会が立派であったかどうかとはまったく分離して考えねばならない。そうでないと歴史の反対車線を走ることになってしまう。
これからどうなるかは予測できない。一方、予測できないからこそ、それはあらゆる可能性を秘めているのであって、わたしが泳いでいく面白みがある。まずは、もっと現実の出来事に驚かねばならない。現実に不感症になってしまうのは生きるエネルギーが枯渇したことを意味する。
年寄りが「昔はよかった」とやると、後世代はシラケル。なんとなれば、逆立ちでもしない限り、いまよりよかった時代は過去にはない。正確にいえば、いつの時代も理想に向かって歩んでいると思えるときが、いい時代である。
人間は、常に状況に働きかけて、状況を開拓して、一歩一歩前進してきた。前進とは、前を向いて進むこと、すなわち以前より理想に向かっているから前進なのである。
果たしていまはどうだろうか?
少なくとも、地上において民主主義以上に優れた政治形態は考えられない。それは、一人ひとりが自由に生きよう・生きられるようにしようという知恵から生まれた政治形態である。だから、現代の人々が政治的に前進しようと思えば、民主主義に依拠し、それを発展させることが第一である。
ところが自民党の憲法草案なるものに表現されている思想は、どう考えても民主主義の逆走である。それの時代的標的は「明治の輝ける時代」にある。
大事なことは1つだ。仮に、過去に素晴らしい時代があったとしても、過去の形式へ戻ろうとするのは、社会と人々の自殺行為である。まして、明治一新以来のわが国が辿った滅亡への道を振り返れば、日清・日露戦争の、いわゆる勝利自体がその道への一里塚であったことに気づく。
政治家が、ロマンを抱くのは勝手である。しかし、歴史を弁えずに、自分が夢想する過去をもって今後の目標にするというのは、時代錯誤、勉強不足の何ごとでもない。
生きることは、わたしが世界と常に触れ合うのである。わたしは、現実に起こっているさまざまの事態について、もっと驚かねばなるまい。反対車線を走っているのだから、驚くのが当たり前なのである。慣れるのはさらに危ない。
安楽な生活を手にするためには、自分の手で危ないことを1つひとつ除去していかなければならない。わたしを取り巻く環境に対して決断するのは、わたし自身である。野党が弱い。仕方がない、だからこのままでよろしい、という考え方は自滅行為である。そんな選択をする人はいないであろう。
奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人