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組合関係者の奮起を促す

奥井禮喜

新人類の登場

 1981年に「新人類」という言葉が広まった。若い世代が、新しい感性や価値観をもっていて従来とは異なる人種! みたいだという意味である。彼らを三無主義と呼んだ。無関心・無気力・無感動である。無自覚・無責任を合わせて五無主義とまでボロクソいう連中もいた。新人類教育で「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)というような言葉が流行する。非常に幼稚な感じがした。

1990年代以降

 新人類が社会人として一人前になった90年代、バブルが崩壊するや一気に元気を喪失した。働く人々は雇用不安の心理に支配され、もともと自己主張しない気風がさらに強まった。

 95年1月17日5時46分、兵庫県南部地震が発生した。地下鉄サリン事件、翌年はペルー人質事件と暗い話が続く。希望退職募集が連日報じられる。2000年代へかけて、働く人々の気風はどんどん下降し沈滞した。

 07年、政財界主導でWLB(Work Life Balance)が打ち出される。政財界が本気で取り組むだろうか? というよりも、本来、働く人々が主体的に提起し取り組まなければならない課題である。ところが労働界は全体に低調を極めており、状況変化にくっついていくのがやっとであった。

 08年はアメリカ発世界金融危機が勃発した。住宅融資のサブ・プライム・ローンはねずみ講である。世界中が素晴らしいアメリカ的金融技術だとして称賛していたのだから、知的・道徳的退廃は語るに落ちる。さらに、11年3月11日14時46分に東日本大震災発生、地震と津波、原発事故が発生した。

 日本経済を長期的に眺めれば、84年の中流意識90%をピークとして、後は坂道を転げ続けたようなものだ。働く人々にすれば踏んだり蹴ったりで、いつも気持ちがささくれ立っていたとしても不思議ではない。

労働側の大後退

 90年代の雇用問題発生に対して、常々「雇用を守る」と豪語していた多くの組合がさしたる存在感を示せず、組合運動のクレジットを大きく毀損した。

わが国は敗戦後、デモクラシーとなった。デモクラシー育成発展のための役割を期待されたのが大衆運動=労働組合である。なんとなれば、封建社会においては、権力支配層が圧倒的多数の大衆を好き放題に取り扱った。目覚めた被支配階級(大衆)が、長い期間をかけてデモクラシーを作り上げてきたのが世界の歴史だ。

 明治維新で表向きは四民平等(士農工商廃止)になった。実際は旧士族が衣替えした専制的官僚による軍国主義国家に育った。アメリカは日米開戦以前から日本の歴史を緻密に研究していた。戦後日本を統治した占領軍(GHQ)は、もっとも厳しく支配されていた大衆運動を担う労働組合がデモクラシーの推進力に育つように期待したのである。

 労使関係の変化をみよう。敗戦まで、労働者は「働かせていただく」のであって、資本家は労働者を「働かせてやる」という関係である。労使対等という考え方がない。労働者は粉骨砕身、働かせていただく恩義に報いる。資本家が、愛い奴だと思えば目をかけてくださる。労働者が労働条件を引き上げてもらいたいなどと注文をつけるのは「人としての」道を踏み外すことであった。

 敗戦後の組合は、賃上げ闘争に励んだ。各組合ばらばらの賃上げ交渉が、1955年から春闘になり、少なくとも賃上げ要求は労働者として当然の権利として定着した。もう1つの意義は、賃金決定は従来企業の独占経営権であったが、組合が交渉して決定するように変わったから賃金決定面において労使対等を進め、さらに経営参加への道が開いた。

 敗戦後、経営者が「働かせてやっている」とは公言しなくなった。ただし、常に愛社精神を語り、企業に対するロイヤリティを高めるように宣伝する。「会社が潰れたら元も子もない。労使関係でいちばんの大事は経営第一。儲かれば払うし、儲からなければ払えない」(=ない袖は振れない)というのが、いずこの企業においても経営側の対組合コンセプトである。

 「ない袖」論と対抗するために、組合は勉強した。それが労働力の再生産費説である。組合員が「会社に食べさせてもらっている」なんて感覚では、強い交渉ができないから、70年代いっぱいは、どこの組合でも組合員段階まで賃金学習会を開催した。ところが、80年代バブルから90年代雇用不安時代を通じて、ほとんど開催されなくなった。

経営側の思想スリコミ大作戦

 経営側の思想や主張は、大昔から一貫している。要は、「出すものは鼻血も出したくない」「総額人件費を抑えて」、以て最大利潤をめざすというに尽きる。経営業績が悪くなれば危機感を煽る。

 90年代の経営側は「雇用される能力」論=employee-abilityを持ち出し、「成果主義」を強力推進した。「役立たずは去れ」論である。まことしやかに、雇用される能力などを耳元で呟かれると、大方の諸君はそうだよなあと思う。オレがいなけりゃわが社は潰れるなどと豪語できる人が少ないのは当たり前である。圧倒的多数は「あなたが抜けても会社は動く」の、あなたなのである。

 ところで80年代から2000年代まで、社員諸君が手抜き仕事したとか、適当にやっていたのであろうか? バブルに踊って、バブル崩壊で慌てて、有効打を出せずにもたついたのは、実は経営陣である。わたしは「役立たずがいるとしても、役立たずゆえ、彼らは企業業績に関知しない。業績を下降させ、再建に力を発揮しないのは、役立ち諸君のはずだ」と、当時執拗に書き、かつ喋ったのであるが、お役に立たなかった。遺憾である。

 必要なのは「雇用される能力」ではなく、「雇用する能力=employ-ability」である。企業業績の不振を、弱い立場に押し付けるのは極めて陰険、かつ卑怯である。これは、八百屋で大根買った主婦が料理をしくじって、八百屋に値下げせよというのに等しい。理不尽だ。

 以前の組合員であれば、それなりに勉強していたから、「会社が儲かっていないって! 俺の責任じゃない。1年間低賃金でこき使われてきたんだ」と突っぱねた。今度は「上見れば切りがない。下見ても切りがない。まあ、こんなもんじゃろ」と塹壕の中でクビをすくめていた。労働力の再生産費説どころか労働力の売り手としての「当事者意識」が消えている。

組合の思想的弱体化

 もっとも大きな労働側の欠陥はなにか? 「雇用される能力」論を唯々諾々受け入れるのであれば、結局「働かせていただく」という封建思想の思想的段階へ逆流している。組合運動の思想的歴史として、非常に大きな出来事である。

 労使間交渉は、組合が常にバッターボックスに立って攻撃するばかりではない。打撃(組合要求)もあれば守備(経営要求)もある。野球であろうが、サッカーであろうが、強いチームとは攻守バランスが取れている。なおかつ守備力が卓抜しているというのが常識だ。賃上げしにくい(できない)から、組合員の視線を警戒して執行部が賃金交渉に及び腰になった。賃金を上げようが下げようが、組合が関わって決定することが大事なのだ。

 守備力とはなにか? 理屈である。思想である。ものごとはすべからく理屈があり、思想がある。他者と交渉するに際しては、理屈と思想がしっかりしていなければ説得できない。80年代半ばから、今日に至るまでの組合活動を全体的に眺めて気づくのは、組合の思想的弱体化である。

アパシー(apathy)というもの

 組合活動において、「組合員が無関心」だと活動家諸君がぼやくようになったのは80年代である。種を撒かねば育たない、手入れしなければ収穫できない程度の理屈は誰でも知っている。ところで自分が率先して、みんなのためになにごとかをやろうと考え行動する人は決して多数派ではない。組合活動は、常に参加者を獲得する活動である。だから学習するのだ。

 アパシー(apathy)とは、直訳すれば——無感動・無関心・冷淡・シラケなどである。どなたさまも、自分の価値尺度をもっているから、意識していなくてもそれに沿ってものごとに関心を示す。

 敗戦後にデモクラシーを獲得したけれども、封建時代以来の日本人を貫いた奴隷的精神(アパシーの先祖)の期間が760年余、対するデモクラシーの期間はたったの70年余である。法律制度が変わっても、法治国家といっても、法を運用するのは人間である。人間の性根が根本から変わらない限り、燃えるようなデモクラシーが1人で立ち上がるわけではない。

庶民気質

 人間として生を享けたのだから、人間らしく生きたいと思う。西欧近代精神では、「人間である限り生物的要求のみに生きたくない」というのが常識である。生物は、栄養代謝・運動・成長・増殖を通じて生きる。基本的属性は増殖にありというが、子孫を残せば人間らしく生きたというわけではない。

 やや漫画チックな表現をすると、人間は3つの欲=「食欲・性欲・権力」欲に強くとらわれる。前2つは生物学的だが、後の権力は人間社会独特の価値観である。権力者と庶民を対置してみると、権力者の価値観は権力奪取にあり、庶民は権力に対して恬淡としている。——と考えれば、よくも悪くも安倍某は庶民諸君よりも人間らしく生きたいと希っているともいえる。もっとも、庶民としては甚だ迷惑である。

 権力とは、権力者からすると他人を自分の恣意のままに動かすことだ。非権力者からすると、自分がしたいのはA行動であるが、権力によって、したくないB行動をしなくてはならない。だから庶民は意識していなくても権力を嫌っている。だから憲法で権力を縛るのである。

 ある権力を巡って、権力奪取を争う人が多いほど権力は価値が出る。価値が出るから権力奪取した人は強権を掌握する。選挙で棄権する国民が少なくないとしても、全政治家が当選できないなんてことにはならない。政治家なんて、なんぼのもんじゃいと軽蔑しても、国から地方まで政治家に手を挙げる人が尽きないから、それぞれ政治は権力(の正当性)をもつのである。

アパシー(政治的無関心)とデモクラシー

 権力に対応する態度を考えてみよう。権力に対して「忠誠する」(=支持)か「反抗する」(=否認)の2つがある。たとえば、現在の与党の支持者は忠誠側であり、その他は否認するのであるから反抗側に位置している。

 ところがよく考えてみると、「支持vs否認」の2つだけではない。支持ではないが、積極的に反抗する側につくのでもないという3つ目の立場がある。以前、よく使われたノンポリ(non-political 非政治的立場・意識)に近いのであって、政治自体を避けようとしているようだ。

 これを、アパシーと置く。最大の特徴は権力に関わる立場に対して一定の距離を置いている。ただし、本人が権力に関わらないとしても、権力がそれを寛容してくれるわけではない。権力との関係でいえば、本人からは関わらないとしても、権力は遠慮なくあれやこれや押し付けてくる。

 なぜアパシーなのか? 直接メシを食うことと関係しない。政治のなんたるかを学んでいない。要求はもっているが、政治的機構が複雑で、なおかつ官僚化しているから手が出せない。自分なんて社会的・政治的になんの力もない。いわば無力感と、それゆえ政治に対する反感をもつのであろう。

 最大の国民の政治的気風は封建社会から継続している。かつて支配者からすれば「由らしむべし、知らしむべからず」であった。被支配者が政治にコミットしないように、常に権力者は人々を監視し抑圧した。そのような事情だから、被支配者からすれば面倒に巻き込まれたくないということに尽きる。その歴史的(精神的)流れがいまアパシーと言われるものである。

 わが国では「デモクラシーとはなんであるか」の十分な認識がない。政治を職業政治家の専売特許のごとくに考える国民性では、いわば国民の多数派がアパシーでも不思議ではない。アパシーは政治的枠外の存在だ。国民1人ひとりが国を作っている。国はいわば1つの運動体であって、その運動を決定していくのは国民1人ひとりである。これを忘れてはいかん。

 企業内のことではあるけれども、労使対等は労使間でデモクラシーの階段を一段上ったことであり、それが後退したことは、結局、日本のデモクラシーを後退させる作用を発生させている。

 W・リップマン(1889~1974)は書いた。――市民は政治という危険な仕事を可能な限り最悪の状態で遂行している。この現実を少しでも認識するならば、1日の労働時間の短縮、休暇の延長、工事や事務所の照明・換気・整頓・陽光、(人間の)尊厳を求める運動に弾みがつくことになるだろう(『世論』)――

 これは1922年の著作である。社会を現実に担っている労働者諸君が、多忙ゆえ! 政治の舞台から逃避して、権力者に善政を期待するというようなアパシーである限り、日本の政治を作っているのはアパシーを悪用する権力者の手に全面的に委ねられる。わたしは、この95年前の忠告が身に沁みる。

 安倍内閣のような低質、乱暴な内閣の登場は、労働運動の停滞化と無関係ではない。労働組合自体(=国民大衆)が巨大なアパシーと化していることを、わたしは深く危惧する。「思考する」という重荷に耐えられない人々は、アパシーの罠に嵌る。「猫に小判、日本人にデモクラシー」と笑っていられない。

 組合関係者の奮起を促したい。

 長時間労働の改善に皆目つながらないような「働き方改革」法案において、罰則を打ち出したのが大改革だというような頓珍漢な解釈をするようでは、全くお話にならない。論語読みの論語知らず、法匪(法律を絶対視して人を損なう)だと罵られても仕方がない。

奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人