月刊ライフビジョン | 論 壇

超高齢社会を生きる

奧井 禮喜
真実は苦い

 高齢社会のシンポジウムで、H先生は、「すべての道はローバに通ずる」とおっしゃった。話術は駄じゃれの類なのだが、会場を埋めた女性(2/3は女性)は椅子から転げんばかりに爆笑、呵々大笑なさった。うまいものだ。ただし、これは先生が女性だから角が立たない、もし、男がやったらブーイングが巻き起こった可能性が高い。ともあれ、苦い言葉であっても、真実である。

 ただし、真実というものは概して歓迎されない。高齢者の集会へ行くと、PPKなる言葉が飛び交う。ピンピンコロリの意味らしい。そんなもん、花のうちにオサラバしたいというのと同じで、ないものねだりだと考えたほうがためになるなどといえば、不興を買うこと必定だ。ないものねだりだとわかっていて呪文だか、念仏だか、PPKを唱えているのだから、思いやりもなんにもない、嫌な奴だと思われるのはまちがいない。

 お若いですねえといわれて脂下がっている人をひそかに嘲笑いながら、自分がいわれると満更でもない気分になる。日本人は形式的なあいさつを多用するが、なかなかバカにはできない処世術である。

 ただし、これらはエージングが直接身に染みていない人の話である。自分がのっぴきならない状態、たとえば身体が思うように動かなくなるとか、日常的に闘病生活を送ることになったら、呪文も念仏もヨイショもまったく役に立たない。見え透いたことをいう奴だと嫌われる。

他人の元気を奪う元気

 命あるものはかならず寿命が尽きるが、ろうそくの灯が消えるようにふっと消えてしまうのではない。思うようにならない自分の体を呪いつつ日々を過ごすことになれば、本人も辛いが、周囲もおおいに辛い。看病疲れで、病人より先に亡くなる事例は決して少なくない。

 躍動するアスリートを眺めつつ、人は、元気をいただきましたというが、病人によって、元気を奪われましたという話になる。元気なアスリートもさることながら、周囲の元気を奪う病人の底力は大変に大きいと思うべし。

 ついでだが、元気を奪う事例は至る所にある。プーチンでも、バイデンでも、国際的・国内的陣笠政治家でもよろしい。人々が政治的無関心を決め込むのは、政治によって元気を失うからである。

 政治家どもに病人的状態をしばらく体験させれば、自分が、いかに人々の元気を奪っているか。人間として罰当たりなんだということに気づくにちがいない。ただ、彼らがそれに気づいたとしても、人々から奪った元気を回復できるわけではない。なにしろ、連中は平然と神や国家を口に責任を転嫁する。基本的にペテン師的タイプだから、彼らが跳梁跋扈できない社会をつくるしかない。

失意から元気への転換

 わたしは組合役員時代に、人生設計システムをつくり、組合活動に供した。おおくの組合員が参加してくれた。当時、マスコミが面白がっておおいに喧伝してくれたのは事実であるが、組合員に人気がなければマスコミも飛びつかない。なにが人気の秘密だったか? 実はだいぶぶんの人が、なんだ、そんなことかというにちがいない。しかし、あえて事例を紹介する。

 松尾さんは当時55歳、難しい歯切り盤のベテランで、だれもが実力を認めていた。たまたま会社の人事制度改革があり、現場を離れて末端の管理的業務に転換したほうが技能よりも上に立つことになった。厳密にいえば、そこまで露骨ではなかったが、日ごろの技能者処遇に対する不満に火がついた。もちろん会社内でクーデターを起こしたのではない。自分の来し方を痛切に振り返った。

 彼は太平洋戦争で、シンガポールへ工兵として送り込まれた。任務は、渡河・輸送・道路建設(破壊)・通信(連絡)などであり、あるときは、本隊の移動をカムフラージュするために、夜中に囮として明かりをつけたトラックを走らせて、敵の攻撃を一手に引き付けた。命懸けの戦争のなかでも特別命懸けである。

 お国のために、の一心。命拾いして帰国後、会社に技能工として入った。今度は、会社のために、の一心。滅私奉公の対象が国から会社に代わっただけである。

 会社、仕事、それ以外のことはほとんど眼中にない。それだけ全面的に会社を絶対視していた。自分の人生についてなにも考えずに生きてきたが、自分の人生はいったいなんだったのか? はじめは会社人事政策にかんする不満だったが、人生というものは、考えれば考えるほど面白い。仕事よりも面白いじゃないか。つまり、自由の意義に気づいた。考えるほど自由が拡大する。自分に力が湧く。海辺で蟹を見て気づく。人生、横にも歩くもんだ。

 わたしたちはたびたび話し合った。松尾さんの言葉は格別非凡ではない。気の利いた言葉にできないが、確信の力がある。

 はっと気づいた。当時の勉強会は、戦争世代とその後世代が混在していた。自分の人生の価値に気づいたのはどなたにも共通するのだが、確信の力が、松尾さんたち戦争世代ははるかに強い。彼らがリーダーシップを発揮してくれたので、人生設計の勉強会はおおいに活気を呈した。

 松尾さん世代は、敗戦後の青年運動に燃えた。当時、彼はそれを横目にしていたが、30年後の中高年活動に燃えたのである。青年運動はげんなりしかけていた。皮肉なものだ。

体験と経験

 わたしの勝手な解釈だが、戦争世代のほうが、言葉にはしなくても、自由の尊さに深く気づいたのだと思う。自由には、束縛からの自由と、自由をさらに追求する自分自身の自由(これこそが本命)の二面性がある。束縛からの自由でみれば、束縛が強かったほど自由の解放感は大きいはずだ。束縛体験がない人は、束縛からの自由を深くは感じないだろう。

 敗戦直後の自由と民主主義、平和主義の運動の盛り上がりは、やはり、束縛体験と戦争そのものの体験が大きく影響しているはずだ。

 ただし、束縛体験にせよ、戦争体験にせよ、それをどのように経験として位置づけるか。これは、どこまでも個人的思索の産物である。単に嫌な思いをしたとか、悲惨な体験をしたというだけなら、時間がたつと薄らいでしまう。いかに考えるか。体験を経験化するのは思索によるだろう。

 戦争は、同時代のどなたもが体験した。ところで、戦争に対する意識をみると、反戦、嫌戦、厭戦の3つがありそうだ。勝利を積み重ねていると思っていた当時は、おおかたの意識は好戦である。長引いて銃後の日常生活が不便になると厭戦気分になる。空襲などくらうと嫌戦意識が強くなる。

 しかし、敗戦後、だれもが反戦・平和意識を育てたのではない。厭戦・嫌戦は状況によって生まれるが、反戦・平和意識は思索の産物である。思索が深いか、深くないか。深ければ平和主義志向であろうし、深くなければ厭戦気分であり、嫌戦意識に止まって、時間によって過去に消えていくのだろう。

 敗戦後の生活苦を生き抜くために、戦争や平和を考える余裕がなかった面はある。嫌な体験はできるだけ早く忘れてしまいたい。忘れられる人もいるが、忘れようとしても忘れられない人もいる。忘れたいと思う人はそれだけ体験のシワが深く刻まれているから、忘れたいと思うこと自体が忘れさせない。

 人生設計の勉強会に参加した戦争体験者に共通していたのは、戦争を忘れられない傾向が強かった。それだけ、勉強する喜び、自由を手にしているという意識が強かったのだろう。

 カント(1724~1804)を引用すれば、人間は、心のうちから状況を主観的に観察し規定するのである。当時のわたしはカントを読んでいなかったが、カントの指摘は真理だと思う。

 松尾さんは、ものを考えずに生きてきたと述懐された。思索することの面白さに気づいた人は本当に逞しい。しかも、日常生活そのものを思索するのだから退屈しない。人間関係性において、右顧左眄することはない。

相対元気の克服

 人はなぜ元気を失うのか? 

 わたしは相対元気が原因だと考えている。相対元気とは、他者との相対関係で自分を推し量り、行動することである。これは嫉妬の最大原因でもある。卑近な例でいえば、友人になにごとか結構なことがあった場合、素直に喜べない。友の喜びにわれは舞う、という言葉があるがそうはいかない。逆に友人が失意にあるとか、落ち込むようなことがあると、妙に気持ちが浮揚する。俗に、他人の不幸は自分の幸せ・他人の幸せは自分の不幸というものである。

 ショーペンハウアー(1788~1860)はわざわざ難しく表現した。いわく、――(人が)大きな悩みにあって、なにより力強い慰めは、自分よりもっと不幸な他の人たちを見ることによって得られる。――

 ――おおいなる羨望に値する人間は誰もいない。おおいなる憐憫に値する人間は数知れず存在する。――

 そして、彼は、――(苦悩だらけの)現存在よりは、むしろまったくの無のほうがましなくらいだ。――と、生きること自体になにも意味がないことを指摘して、自殺を賛美しつつワインを味わいながら歓談したらしい。

 少々ポンチ絵的で失礼したが、実際、人生の絶対的意味を見つけるのは困難である。エージングによって、身体、行動不如意ともなれば、さらに日々の元気を持続するのが難しい。

 しかし、灯が消えるまで人生を満喫しない手はない。人生のどん詰まりまで相対元気ではない自分独自の元気(かりに絶対元気と呼ぶ)を追求すること、「無よりも現存在がまし」だという生き方こそが、超高齢社会を生きる唯一の知恵である。絶対元気は、自分自身でしか求められない。

 なにかの拍子に絶対元気を見つけたら、これは世紀の大発見である。まだ、エージングに関心のないみなさまに、少しだけでもお考えいただきたいので一文を草した次第である。


奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人