月刊ライフビジョン | 論 壇

道徳に正解はあるのだろうか

奥井禮喜

 ――最初に紹介するのは、昨年12月23日朝日新聞朝刊に掲載された高校生16歳の意見である。興味を引いたので、これに触発されたことを書きたい。

高校生の意見

 小学生の頃の道徳の授業で、友達と大げんかした主人公の話が取り上げられた。その友達から仲直りを持ちかけられて、物語は終わる。主人公は友達を許したか。級友たちはほとんど、友達だから許した、という意見だった。しかし、私は仲のいい友達ほどなかなか許せないのではないかと感じて、そう発表すると、クラスは私が間違った答えを言ったかのような微妙な雰囲気に包まれた。

 先生は「本当にそう思いますか。あなたはけんかしても友達を許さないのですか」と私に尋ねた。「道徳は答えがないので全員違う意見で良い」と教えられていたのに、私は結局、皆と同じ意見だと答え、それ以降は、道徳は私にとって、いかに級友たちと同じ意見を言うかの授業となった。

 先生が「友達とけんかをしても許してあげましょう」ということを伝えたかったというのは理解できる。しかし、私の意見を一方的に否定されてしまったのは、今でも心の傷として残っている。道徳に結局、正解はあるのだろうか。

 本人は、ある物語の次の展開について率直な感想を述べたが、級友たちとは異なった見識であった。級友たちは、友達なんだから大げんかしたけど許したと考えた。先生が、結果的に級友たちの多数意見を押し付けるような質問をしたことに違和感をもちつつも、同調した。

 なぜ違和感かというと、道徳に真の答えはないと教えられていたし、本人自身がそう思っていたからである。友達であろうがなかろうが、けんかして、相手を許す行為自体に異議があるのではない。しかし、大げんかして、やすやすと握手できるものではないし、仲の良い友達であれば、なおさら容易に氷解しないだろうと想像したのである。人の心理をよく考えた観察的想像である。

 今でも心の傷として残るのは、仲直りするいう展開を(結果的に)強要されたと感じたこと以上に、どうして最後まで自分の意見を貫かなかったのかという口惜しさが背後にありそうだと思って、筆者は高校生の意見に惹きつけられた。小学高学年であったろうが、非常にしっかりとものごとを見つめておられた。

 まあ、おおかたの級友は、退屈な道徳の時間であるし、仲直りするのは上等であるし、「友達なんだから」と世間常識的に考えたのであろう。こちらの気持ちもよくわかる。答えを出してすっきりしたいわけである。ただし、いかにも軽い。

 こんな記事に触れると、先生のお仕事というのはまったく大変だと同情の気持ちが湧く。テキストの内容がわからないので、与えられた条件だけで考えてみる。自分が先生の立場だったら、どう運ぶだろうか。

 なるほど、大げんかしても仲直りすべきだというのは、1つの正しい見識であり、道徳的だろう。しかし、途中の計算式がなくて回答だけ抜き出した感である。多数派は「友達だから」仲直りするとした。それはよい。ところで、「友達なのに」大げんかしたのはなぜなのだろうか。という視点抜きで、「友達だから」仲直りするというのは、短兵急であり、不自然である。

 友達であっても、けんかをする。それにはそれなりの原因がある。その原因をすっ飛ばして握手しても、本当の和解にはならない。けんかの直接原因はわからないが、当事者同士がそれぞれ怒りに取りつかれたから、大げんかになった。怒りを引き起こした原因をなんらかの手段で取り除く必要がある。

 怒りの背景には憎しみがあるかもしれない。まあ、友達関係だから憎しみ・怨恨がなかったものとしても、怒りは突発的、きわめて気分的なものであって、その基盤には、自分=自我がある。よくもわるくも自我が前面に出てくるのが人間関係である。仲良しの友達であっても、自我は別物である。自我が抑制できない場合に怒りが爆発する。

 このように考えれば、「大げんか⇒仲直り」コースだけではなくて、「大げんか⇒原因」コースもまた道徳の授業にふさわしかろう。「仲のいい友達ほどなかなか許せない」という気づきは、道徳の授業としては、原因コースへの導きでもあった。自我、怒りについて考えるならば、道徳の授業は退屈なものから、自分自身との対話につながる。道徳的に生きることを、1人ひとりが自分の課題として考える。それが道徳(授業)の意義であろう。

友達だから!

 筆者が高校3年のとき、仲良し5人組ができていた。某日、体育館の裏で4人が喫煙現行犯で見つかり、1週間停学を食った。担任教師が筆者に、お前も吸っているだろうと詰問する。筆者は煙草を吸わなかったので吸っていませんと応じた。担任は「ふーん、友達なのになあ」と不満顔であった。

 しばらくは非常に気分が悪かった。仲間が吸っているのだからお前も吸っているのではないかと疑われたのは仕方がない。許容範囲である。しかし、「友達なのになあ」という言葉には、筆者が、喫煙現場を見つからなければ大丈夫と居直っているという疑惑の決め付けが露骨であった。

 以前から担任とは相互に嫌っている関係なので、疑惑的侮辱を受けても、程度の悪い教師だなあと思っただけである。しかし、仲間4人が停学を食っているのに、自分がのうのうとしているのは「友達がい」がないのではないか。これはちょっとした心の傷であった。もちろん4人も筆者が喫煙しないことは知っている。停学明けから直ちに5人組が復活した。担任が筆者にいわく、「友達はいいものだろう」。あたかも筆者の裏切りを仲間が許したと言わんばかりであった。

 卒業後四半世紀過ぎた。母校から後輩諸君のために講演してくれという依頼が来た。固辞したが断り切れず、なにしろ高校生活はテニス部活動以外になにも語るべきものがないのだから、辛い。

 講堂の床に座っている1,000人を壇上から見た瞬間、「みなさん、どうですか。学校は嫌いでしょう」。これがバカ当たりで拍手喝采、このおっさん、ひょっとして面白いかもしれんぞという視線を感じた。「だいたい、わたしは先生とうまく行かなかった」。先生と生徒も人間関係だ。ウマが合うの合わないのもいる。先生は神さまではない。先生からして、可愛い生徒もいれば、可愛くないのもいる。しかし、世間に出てわかった。意地悪だと思っていた先生、いやそれ以上に嫌なのが掃いて捨てるほどいる。学校は温室だ。先生は世間のことを慮ってかどうかは別として人間というものを教えてくれた。これ、反面教師という。大拍手。学校は育ててもらうところではなく、自分が育つために取捨選択を重ねる場だ。いまどき、工業高校卒は昔でいえば中卒並みだが、人生を学ぶ意味では、大卒より4年早く社会人になる。学歴コンプレックスは不要だ。自分の人生を、勉強して育てるつもりで学校生活を味わってほしい。こんな調子で1時間話した。終了後の拍手は、筆者のしゃべくり人生では最高の部類であった。

 事後、校長室で校長先生と歓談。事前に、生徒たちの私語が多く失礼があっても許してくださいと言われた。「すごい、私が校長になってこんなに盛り上がった講演は知りません。先輩の力はすごいですねえ。先日は、私語が止まらないので講師が怒って帰ったのです」。「どんなお話なんですか?」とつい聞いた。地元のとある大きな寺の住職による人生講話だった。腹の中で虫が鳴いた。

内向きのお付き合い

 友達から脱線してしまった。講演は自慢話ではない。かつて担任にぶつけられた言葉の気持ちの始末が、卒業以来四半世紀、反面教師論に至ってやっとケリがついた次第である。

 昔から、日本的対人関係は、なんとか一家的結合や徒党的団結に著しい。仲間であれば少々のことは問題にしない太っ腹かと思えば、仲間外についてはちまちまと批判・指弾する。いわゆる縁故者ヒイキの傾向である。

 とりわけ旧軍隊における対内的総親和と排他的閉鎖性が有名であるが、これは旧軍部の専売ではなく、日本人の、意識せざる意識の底にいまも残っている特質だとすれば、「友達とけんかしても許してあげましょう」というのは、単に友情のことだけではなく、縁故意識が知性的・合理的な対人関係を発達させない力を形成しているともいえる。

 これは、コミュニケーションがなかなか発達しない日本社会の事情が傍証しているのではなかろうか。

道徳には正解がない?

 もう1つ、大きな問題がある。本人は、「道徳に結局、正解はあるのだろうか」と末尾で問いかけている。これは、なかなか大変な問題提起である。

 ――道徳は、人のふみおこなうべき道である。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力をともなうものではなく、内面的原理。(広辞苑)――

 まあ、難しい。小学生に教授できる人が世間におられるかどうか。筆者は自信がない。そうはいっても、正解はありませんと断言するのも妥当ではない。生目目の構えで切り込めば、国家の名による戦争によって、殺戮と破壊がおこなわれる。これは、まったく道徳がないばかりでなく、社会においては犯罪である。個人と国家は違うという、まったく程度の悪い方便が顔を出すが、国家は人々が道徳的であるからこそ、秩序維持できる。国と国との間では道徳を共有しないというごとき未開・野蛮の思想は、世界の言論界が是認することではない。

 この問題を考えれば、21世紀にもなったのに、人々は道徳なき世界に生きていることに暗たんとするのみである。

 時代をさかのぼるほど、ほとんどの国は国家主義である。国家主義は、人間社会において国家を第一義とし、その権威と意思に絶対の優位を認める。必然的に全体主義的な傾向をもつ。

戦争は国家がおこなうものである。個人間のけんか騒動は戦争ではない。

 個人においては、人が人を殺めることは絶対悪であって、たまさか正当防衛の意味があって許容されても、悪は悪であって、正義ではない。

 ところが、国家間の戦争においては、殺人は正当防衛のみならず、たくさん人を殺めれば英雄扱いされる。不道徳な仕業が褒め称えられるのでは、とても道徳的ではない。

 民主主義は人間の尊厳に基づく個人主義である。個人主義は、社会も集団も個人の集合と考えて、個人の意義を第一に考える。個人段階において、殺人が不道徳な仕業であれば、それは社会においても、国家においても同じである。国家が戦争することは、国家が道徳を破壊しているのであり、道徳を考える際、道徳が国家の足下に沈むのはおかしい。

 道徳に正解がないのではない。「なんじ、殺すなかれ」は道徳として正しい。ところが、人間はおよそ道徳的ではない動物である。人間が、人間として道徳的に正しい生き方をするように自分自身を鍛えることが、道徳なるものの本願ではなかろうか。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人