月刊ライフビジョン | 家元登場

笈を負いて旅に出る

奥井禮喜

気の毒になるほどのわが現実

 夏目漱石(1867~1916)が、愛媛尋常中学校の教諭として松山に赴任したのが1895年4月であった。俗に松山落ちといわれるが、先に勤めた高等師範でがまんできない事情があったらしい。事情のいちいちはともかく、高等師範で教鞭を執っている自分が、「窮屈で恐れ入った」、「不向きなところ」であった。「魚屋が菓子屋へ手伝いに行ったようなもの」だったと述懐している。校長の加納治五郎(1860~1938)に「あなたは正直すぎて困る」といわれた。ならば「もっと横着を極めていればよかったのかもしれません」とも語った。横着の意味は、押しが強く遠慮がない、ずるく、なまけるなどである。漱石は、納得できないことに調子を合わせる性格ではなかった。自分の理想の高さに対して現実が伴わない。「自分が自分に対すると甚だ気の毒」だと表現している。自分(主体)をひたすら状況に合わせるだけならば横着だというわけである。漱石は自己組織性の傾向が高かった。

自分を変える「内蔵力」

 自己組織性とは、システムが環境変化の有無にかかわらず、自力で自分の構造を変える意味である。環境適応ではなく、内蔵力(内部からの創造的破壊)によって、自分を変える。それによって新たな秩序を形成していく。たとえば、職場の人間関係で、AくんがBくんに注文がある。変わって欲しいと願うが、Bくんは容易に変わらない。はたまた組合役員が、「組合員が組合に無関心だ」とぼやく。面白くない膠着状態が続いている。活路として、Aくんにせよ、組合役員にせよ、相手が変わることを期待するだけではなく、自分が変わろうというのである。主体同士が1つの状況において関係を作っているのだから、相手でなくても自分が変われば関係の中身が変わる。相手が変わることを期待して、自分が拱手傍観しているのであれば、相互に変わらないのだから、目下の関係は半永久的に続くことになる。気がついた者から変わるべし。それが伝播して集団や組織が活力を発揮する。

笈を負いて旅に出る

 漱石は、愛媛尋常中学校の会報に「愚見数則」という小論を寄稿した。生徒の学びについての意見を書いた。(昔の学生は)「笈を負いて四方に遊歴し」云々とある。笈を負うとは、郷里を出でて遊学する意味である。もちろん生徒たちは学校で勉強するのだから旅に出るのではない。これは、まだ学校などがなかった時代の話であるが、なかなか含蓄がある。旅に出るのは自分の問題意識の解を求めて師匠を探すのである。問題意識がなければ笈を負う必要がない。問題意識を生み出すのは自分である。すなわち「学ぶ」態度がすべての前提である。いかに有能な人物が存在しても、求めなければ、その人の有能さのお相伴には与れない。教え方の巧拙よりももっと大切なのは、主体が学ぼうとしているか否か。勉強せねばろくな者になれぬというのは、学校時代だけではない、勉強は試験に合格するための知識の習得だけが目的ではない。「知恵」の獲得こそが人生の本願であろう。

美学に至る道

 「理想を高くせよ――理想なき者の言語動作を観よ、陋醜の極みなり、理想なき者の挙止容儀を観よ、美なるところなし。理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬくらいなら、初めから無学で居るほうがよし」。美学に到達する学びの世界の空気をわがものとするのだから、横着を極めることはできない。学ぶことは知恵を育てるのであり、人間を磨くことだという漱石流哲学が短い愚見数則にはふんだんに盛り込まれている。カント(1724~1804)を想起する。カントは、どこまでも学びを通じて人間性を高めることを追求した。そして人間の3つの背徳を指摘した。いわく、「怠惰・怯懦・虚偽」である。漱石の松山落ちは、それに対する態勢立て直しの一歩だったのだろう。明治の文明開化が西洋の物質文明だけの追跡に終わらなかったら、日本はもっと栄えたに違いない。漱石の文章に触れるたびに、明治知識人のもっとも美しい部分を見る。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人