月刊ライフビジョン | 地域を生きる

風呂屋はレジャーランド

薗田碩哉

 子どもの頃、我が家には内風呂がなかった。ご近所でも風呂がある家は少なく、たいていは町内の銭湯を利用していた。歩いて5分ほどのところの「藤の湯」が我が家の風呂場だったが、ここが休みならちょっと足を延ばせば別の風呂屋が2軒あって、お互いに休日をずらしていたから、正月の2日以外は毎日どこかの銭湯に行くことが出来た。大晦日の風呂屋は夜っぴてやっていて、元旦まで何時でも入ることが出来た。どこの店も大晦日に大掃除をして片付けて、それから夜中にゆっくり風呂につかってさっぱりしたところで年越し蕎麦を食べ、除夜の鐘を聞いて初詣という段取りになっていた。元旦までやっていた風呂屋は翌2日を正月休みにして、3日から新年の営業になるというわけだ。

 風呂屋は子どもたちにとってはすてきな遊び場だった。午後2時には開店するので、学校が終わると直ぐに風呂に行くこともあった。昼下がりの風呂はすいていて、お湯もまっさら、高い天井の窓から光が降り注ぎ、壁に描かれた富士山の絵も輝いて見えたものだ。熱い風呂をプールにして泳いだりもぐったりして大騒ぎ、風呂屋の親父にどやされることもしばしばだったが、一見怖そうな大男の主人は、実のところ子どもには優しかった。風呂屋が休みの日に、湯船を分厚い板で蓋をして舞台にし、洗い場に茣蓙を敷いて観客席にして子ども劇場みたいなイベントをすることもあり、たくさんの子どもたちが集まった。これは今から思えばふろ屋の主人の好意で行われたのだと思う。

 隣り近所の面々が夕方から夜にかけて次々と風呂屋にやってくるのだから、洗い場は賑やかな交際場だった。小学校の低学年の頃は祖母や母親とともに女湯に行ったので、近所のおばさん連が賑やかにおしゃべりし合うのを見ていた。背中を流しあったり、他所の子どもを洗ってやったり、中には風呂場で洗濯をしているような人もいた(これは禁止されていたはずだが)。男湯でものんびり話し込む親父たちがたくさんいたが、目立ったというか「耳立った」のは「唸る」男たちだった。謡から浪花節から歌舞伎の声色まで、湯船の中でも洗い場でも延々とのど自慢を続ける親父がいつでも1人や2人はいたものだ。子どもだから中身はよくわからなかったのだが、浪花節だけは面白いと思った。祖母が大ファンでラジオでいつも聞いていたし、近くで開かれた公演会に連れて行ってもらったこともあったからだ。広沢虎造が人気を博していたころで、清水の次郎長だの森の石松だの、あの調子のいい語りと歌は今でも耳に残っている。

 男湯では刺青も見ものだった。背中一杯に大きな竜を彫った人、腕に「誠」なんていう文字を入れた人、熱い風呂に長く浸かり上気して出てきたおじさんの背中に、真っ赤な金太郎の顔が辺りを睥睨しているのなんかは子どもながらに見事なものだと思った。女湯でも刺青を見たことがあるから、当時はそれほど珍しいものでもなかった。当今は温泉でも銭湯でも「刺青お断り」になってしまって、あの芸術的ともいえる身体表現が見られなくなったのは残念というしかない。当時入れ墨は必ずしも反社会性の象徴ではなかった。かつては粋な職人なら刺青の一つも入れるのは身だしなみというべきものだったのだから。

 風呂屋は子どもにとってレジャーランドであり、大人にとっても気楽な地域サロンの役割を果たしていた。隠すところは前しかないという裸のつきあいが自然にできる、江戸の浮世風呂から続く庶民の情報交換と世論形成の場として、町に欠かせない装置だったと言えるだろう。見た目は豊かになった現在の町に、かつての風呂屋を代替するコミュニティの場はいったいどこにあるのだろうか。【地域を生きる45】


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。