設立25周年記念公開シンポジウム「人生と働き方の関係を再考する」
ライフビジョン学会は2018年9月8日、オリンピック記念青少年センターにて、設立25周年記念公開シンポジウム「人生と働き方の関係を再考する」を以下プログラムで開催しました。
1.基調報告 「人生と仕事の関係を再考する」有)ライフビジョン代表 奥井禮喜
2.記念講演1「時代の混迷を切り開く視点」 法政大学法学部教授 水野和夫 氏
3.記念講演2「これからの社会と働くということ」~「働くこと」と社会や企業や組合、そして人と人との関係~ (公財)連合総合生活開発研究所理事長 古賀伸明 氏
記念講演2 「これからの社会と働くということ」
(公財)連合総合生活開発研究所理事長 古賀伸明
労働は社会の課題を解決する
「働く」とは、「私が働く」ということから始まる。私が学生たちと話すときには、働くということは自分にとって何であるかを考えよう、ディスカッションしようと提起している。
「働く」ことは、人と人とをつなぐ触媒ではないかと考える。人と人がつながれば働く場は外の組織や違う社会と繋がり、社会の課題を解決していく。それが労働、仕事であり、事業の使命であると考えている。
少し前までは日本でも世界でも、利益を出して社会に還元するのが企業体であり、社会の課題は他のセクターで解決すべきではないかと、ぼんやりした役割分担で考えていた。それは資本主義、市場経済そのものであった。しかし2008年アメリカ発の金融危機をきっかけに、それでよいのかと考え始めた。今は国連のSDGs(持続可能な開発目標)に対して企業はどう役割を果たすのか、について議論するようになっている。
「働く場」には私たちの拠り所、居場所という機能もある。しかし残念ながらそうでなくなった面も多く、拠り所、居場所は労働組合が考えなければならない。働くということは、重要な価値を持ったものであり、尊厳がなければならない。
1944年のILOフィラデルフィア宣言では第一番に、「労働は商品ではない」と謳っている。働く人たちとは労働力ABCではなく、育ちも環境も異なる、置かれた環境も、持っている課題も異なるAさんBさんCさんなのである。
あるいは1999年、ILO国際労働機関のファン・ソマビァ(前)事務局長が掲げたディーセントワークである。彼は労働の尊厳を、「働き甲斐のある人間らしい労働」と言い換えた。ワークライフバランスも重要な取り組みだ。本来、ライフの中にワークがあるのだから、ワークライフバランスという表現はおかしいと思うが、現在その言葉で定着しているので…。日本の働き方モデルである「男性・正社員・長時間労働」を崩す必要がある。そうでなければ、女性活躍やダイバシティといくら叫んでも、それは例外的な働き方となる。現在の働き方モデルを崩すためには労働時間短縮が必要で、そのためのワークライフバランスの取り組みが必要である。
もう一つの側面は、仕事にだけ役割と責任を果たす時代はもう終わった。社会を持続可能ならしめるために、家庭や地域にも役割と責任を一人一人が果たさなければならない。
過労死過労自殺では、政府認定だけで100人、200人を超える先進国など一つもない。過労死撲滅の視点でも、ワークライフバランスをとらえることが大事ではないか。
ワークライフバランスはこのように、いくつかの視点でとらえるべきと考える。
「働き方改革」は経営、業務改革が根底に
「働き方改革」は数字だけ追いかけるようなものでなく、根底には経営、業務改革がある。
今日の働く現場は非常に複雑になっている。これからは健康寿命が延び、人生における職業期間が長期化していくなかで、個人の働き方をどうしていくのか。キャリアを中断しなければならない育児、介護、教育などの、ライフステージに対応した働き方をどうするのか。
最近話題の雇用抜きの働き方。インターネットのプラットホームから仕事を探して就労する「あいまいな雇用」、これは残念ながら、現在の日本の労働基準法では保護できない。個人の働き方が変化し、職場の構成員も多様化している。これは今までにない現象である。高齢化、女性が過去に比べれば増えている、短時間勤務、テレワーク、育児しながら介護、治療しながら働く。まさに職場の構成員は多様化している。そして産業の高度化、グローバル化がさらなる進展することによって「IoT」(Internet of Things)や「AI」(Artificial Intelligence 人工知能)、多様な文化や価値観が職場にどんどん入っている。性別、年齢、障害の有無、性的志向、人種など、さまざまな価値観を持つ多様な人による職場が増えている。そのようなことを勘案しながら我々は、働く現場の再定義をしなければならない。
「IoT」や「AI」で人間の働く場がなくなるとの議論がある。私は人間の労働の基本は忘れてはならないと思う。技術革新はこれまでもあった、我々はそれに知恵を出して対応してきた。人が技術や科学を使うという基本的なスタンスを絶対に崩してはならない。人が幸せにならないような技術や科学ならば使わなければよい。その大前提が非常に重要だと思う。
さはさりながら科学技術が進歩すると、仕事の内容中身がどんどん変化する。したがって、人を生かす能力開発、教育訓練をどうするか。このシステム仕組みを定着させねばならないし、技術革新は雇用形態も多様化させる。
日本人の働き方の極めて特徴的なことの1つは、働くことに「心を込める」ということではないかと思う。もう一つ挙げるとすれば「チームワーク」。隣人を気にかけて、隣人が困っていたら自分にできないことはないかと考える。アウトプットされた商品やサービスは一緒でも、そこにかかわった人の心が込もっている。
どんなに技術革新が進展しても、これらの基本を忘れてはいけない。そしてそれらのことを実行するためには、労使のすり合わせが非常に重要である。
見過ごせない労使関係の社会的側面
そこで労使関係をもう一度考えてみたい。労使関係とは労使、二者の関係だけではない。産業革命以降のindustrial relations、 産業的関係ということばがあるぐらい、労使関係は複雑な問題がある。アメリカの労働経済学者で、1970年代の半ばに労働長官を務めたジョン・トマス・ダンロップ氏は労使関係を、「雇用・労働に関するルールの網の目」と言っている。これも当然、労使関係の一つだと思う。
しかし労使を働く側の代表と使用者側代表、二者の関係に閉じ込めると、大きな社会的側面を見過ごすことになると思う。なぜならば、私たち労働者は地域や社会の中で生活している。企業は閉ざされた島の社会ではない、地域や社会で事業活動をしている。さすれば労使で協議した内容は、地域や社会に必ず影響を与える。労使関係というのは必ず、社会的側面、地域や社会を含めて考えなければいけない。これが三者関係(三者論)である。
ドイツは社会的対話が非常に進んだ国と言われている。政労使会議などはどんな状況においても必ず常設される。
いまの第四次産業革命(Industry4.0)でも、盛んに社会的対話が行われる。政労使だけではなく、地域の代表も参加し、それが地域社会にどんな影響を与えるかの議論をする。
生きていくうえで必要条件は4つあるといわれる。
1つはお金、2つ目は時間。日本人はこの時間に対して関心が低い。給料が100-200円下がると大騒ぎになるが、自分が何時間働いたのか、知らない人が多い。ヨーロッパは時間に対して敏感で、どうすれば自分の有限な資源である時間を有効に使うのかに大きな関心を持っている。
残念ながらお金と時間、この2つだけでは生活できない。3つ目は社会サービス、育児、医療、介護、教育、公共交通など。最後は人と人のつながり。人間は一人では生きていけないから集団を作り、社会を作って生きてきた。
長いお付き合いをしている中央大学の宮本太郎さんが、貧しさって何ですか? お金がないことですか? と問いかける。彼は「お金がなくても人とのつながりがあれば、その人は貧しさを感じないかもしれない。お金があっても孤立していれば、貧しさを感じているかもしれない。」と言う。
この4つの要素が必要条件と言われるが、キーワードとして地域が浮かび上がる。
家族は最も強いコミュニティ、しかし限定的で多様性に欠ける。職場のコミュニティも強固、しかしいつかは退職で職場を離れる。したがって、地域で強いコミュニティを再生しなければならない。
地域というキーワードには大きく3つの意味がある。①は社会サービス、②家族や職場だけではカバーできないセーフティネット・共助、③労働と生活は切り離せない。労働組合ももう一度、労働と生活の接合点としての地域を見つめなおす、すなわち、働くということと暮らしをセットで考えるということになれば、地域は必須条件となる。
もともと日本は強固な農村共同体で、ここから抜け出したいと思う人がたくさんいたほどがんじがらめなものだった。産業革命によって暮らすところと働くところが分離して、共同体から逃げ出せる、自由になったが、それはいわゆる自己責任になる。市場経済にセーフティネットは無い、そこに共助は無い、生活保障もないから我々は、ともに助け合うことを大切にしなければならない。
ともに助け合うには日本という国は、一般市民国民が行動して社会を大きく変えたことの無い、珍しい民族だといわれている。ヨーロッパ各地のほとんどは、一般の人が行動して社会を変えたことがある、革命の歴史を持つフランスなどは今でも、一般の人が行動を起こす。アメリカは言うまでもなく、一般の人が作った国である。
日本はそういう経験がないだけに、今は言われないものの、観客民主主義とかお任せ民主主義とか言われた。みな観客席に座り、プレーヤーが失敗すると文句だけ言って観客席から立ち上がり、次のステージに行ってまた、観客席に座る。自分たちのことは自分たちで決める、みんなのことは皆で決めるという、身近な民主主義を再構築する必要がある。家庭、職場、町、みな民主主義の場である。
労働運動も働く人の価値観や意識が多様化して、難しい時代が続いている。1つのことに求心力を求めても、無理だと思う、それぐらいの腹のくくりが必要だと思う。
企業別労組成熟化の、次なる運動体の議論を
奥井さんの報告にもあったが、私も第一線にいるときには、職場の人たちと、一般組合員とか職場リーダーと話をする機会を持っていた。彼らから出てくるのはやはり、組合員が組合離れをしているのではないかということ。そこで私は繰り返し、彼らに問いかけた。本当に組合員が組合離れしているのだろうか。それを考えることが、組合役員の組合員離れを防ぐことになるのではないだろうか。
組合役員は今週、組合員とどれだけの話をしたのか、もう一度そこから始めると、労働組合の活動も道はあるのではないか。組合役員がもっと現場に行く、現場の人の気持ちや意見から運動をどう組み立てるかの原点に戻ること。それが、組合役員の組合員離れを防ぐことになるのではないだろうか。
現場の組員役員の皆さんは本当に苦労している。仕事との関係がタイトな中で頑張っている。それがわかった上で引き受けるのが支部、本部の役員であるというフォーメーションを作りつつ、現場の役員がどう動きやすくするかを考えないと、組合役員の組合員離れは改善できないと思う。
日本は企業別組合を原点に発展してきた。しかしそれぞれの責任と役割を変えなければならない時代が続いている。高度成長の時は非常に大きな原動力となった企業別組合が成熟化し、わが組織わが企業わが産業に閉じこもると、それが社会全体から見れば合成の誤謬を起こす可能性がある。経済的格差の一因は必ずそこにある。もう一度、連合、産業別、企業別の役割と責任をどうするかを、腹を割って議論するところに来ている。それには人・物・金の資源の再配分も重要な論点になるだろう。
組合は社会の一員である。社会的役割を果たすことが重要になっている。企業も利益追求だけで良い、社会の問題は関係ないという時代は終わっている。
日本企業にも「思慮深い資本主義」を
私は連合会長を6年やったが、就任直後から「四半期決算など止めたらよい」「ROE(自己資本利益率)など日本の企業で通じないのだから意味がない」と、経営者との会議などで提起してきた。
四半期決算など、数か月での利益を論じるから、中長期的視点での経営ができない。ヨーロッパの企業では止めたところも多い。企業経営の視点を変えなければならないし、経営者も変わらなければならない。
リーマンショック以降、欧米の会議などで、「思慮深い資本主義」との言葉に出会う。市場経済資本主義を全て否定するものではないが、もっと思慮深く市場を発展させる、すなわち一企業、単一産業の利益だけでなく、社会のすべてのステークホルダーの価値を上げていくような資本主義、市場経済でありたい、の意なのだろうと受け止めている。
CSRが出たとき、烈火のごとく怒った経営者がいた。その人は、企業は社会の公器でありCSRは当然のこと、企業経営の中に含まれている、なぜ突然、外に引き出すのかと。私はそれを直に聞いていた。そこが分離していたところに今の、社会的課題があると思う。
ご清聴ありがとうございました。(拍手)[以上文責編集部]