月刊ライフビジョン | 地域を生きる

裏山のガキ大将

薗田碩哉

 遊びは子どもにとって生きることの土台であり、子どもらしい子どもになるための必須のカリキュラムである。その点では今の子どもも昔の子どもも変わりはしない。しかし、決定的な違いは、昔の子どもは戸外で仲間と遊び、いまの子どもは室内で機械と遊んでいるという事実である。

 子どものころ、学校から帰ると靴も脱がずにランドセルを玄関に放り込んで、またぞろ外へ駆け出し、街路や空き地に集まって、メンコやベーゴマやSけんや母艦水雷に夢中になるというのが男の子の日常だった。筆者はひ弱なおばあちゃん子で、ケンカはからきしダメだし、コマ回しやけん玉の技量もまったくの劣等生だったが、それでもともかくも外へ出て仲間と伍して遊んだことは間違いない。商店街の表通りは人通りも多くて子どもの遊びに適さないとはいえ、市電の線路に大きめの釘を置いて市電に轢かせ、ペッちゃんこにする遊びがあった(見つかると大目玉だが)。裏通りに入れば路地そのものが遊び場で、男の子も女の子も一緒に石けりやゴム跳びに興じた。駄菓子屋とその周辺は、お菓子を食べたり漫画を読んだりおしゃべりをしたり、さながら子ども集会所の体をなしていた。

 谷間にある商店街の東西は高台になっていて、斜面に沿って多くの住宅が建てられていたが、まだ手付かずの雑木林や松林も残っていて、そこは格好の自然遊びの場だった。子どもたちが夢中になったのは秘密基地づくりである。林の一角の藪の中に草を搔き分けてスペースを作り、小枝を支えに草をかぶせた屋根を架けてその中に立て籠もる。それだけのことなのだが、ワクワクするほど楽しかった。秘密基地の場所を記した地図を作り、それを紙に包んで穴を掘って埋め、埋めた場所の地図をまた作って隠し持って喜んでいた。

 雑木林が「戦場」になることもあった。われわれ5丁目の子どもたちと、敵である4丁目の子どもたちの果し合いが時々あったからである。ガキ大将に率いられて徒党を組んで山に登るときは心底怖かった。戦闘は木の棒のチャンバラか小石を投げるくらいだが、ぼやぼやしていると捕虜になって木に繋がれたりするのだから、孤立しないように仲間と協力し合って攻めたり逃げたりしなくてはならない。そのころから平和主義者でガキ大将の器ではなかったから、子どもたちの信望は高くはなかったが、学校の成績は良かったから一目置かれていたようだ。学歴社会の影響力は、すでにそのあたりにも浸透し始めていた。

「にいやま」(漢字を当てると新山か)と呼ばれていた高台には、緑が剥ぎ取られ、赤土むき出しの一角があった。そこに上がると遠く港の方まで見通せたし、風通しがよくて凧を上げるには最適の場所だった。北風が吹きまくる冬の日、新山に奴凧を持って行って上げたことを思い出す。風に乗った奴さんは左右に揺れながらどんどん遠くなり、大きな糸巻きの凧糸を全部繰り出してしまうと、奴さんは顔も定かでないくらい遥か彼方になった。風の力で強く引かれる糸の手ごたえが心地よく、寒いのも忘れて一人凧を上げ続けた。青い空が陰って太陽が西に傾くまで上げていた。その新山は今では住宅密集地で、遊ぶ子どもなど一人も見られない。


【地域に生きる40】【原っぱは子どもの天国】

 原っぱという空間は子どもの遊び場として最高の場所だろう。走ったり転がったり、どんな風にも動けるし、寝っ転がってぼんやりしていてもいい。かわいい野の花や昆虫たちも付き合ってくれる。写真↓は筆者と配偶者が町田市の里山でやっていた「さんさん幼児園」の日常の風景。さんさんクラブの田植動画はコチラへ。

                                                


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。