論 考

憲法は全体主義を排す

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 本日は憲法記念日であるから、新聞などには関連する記事がいろいろさまざま提供されている。

 憲法改正論議といえば、第9条に注目が集まりやすい。国として戦争を否定する憲法は極めて価値がある。大戦争と隣り合わせの危惧があるいま、なおさら深刻に取り扱わねばならない。

 ここでは、日本国憲法の根幹思想について再考を促したい。

 日本国憲法は民主主義の憲法である。民主主義とは、全体主義を根本的に排斥する。憲法を考えるについては、これをしっかり頭に叩き込んでおきたい。

 全体主義とは、個人に対して、全体(国家・民族)が絶対優位にあると主張するものだから、突き詰めれば、全体の名のもとに個人の主体性が吸収される。個人は全体の目標に総動員されるので、民主主義とは相いれない。

 民主主義は、個人の人間的尊厳に立つもので、全体とは、個人が集まって作っていると規定する。すなわち、個人の主体性や意志なくして、民主主義は成り立たない。

 敗戦までは、滅私奉公が当然とされた。一切の個人的事情を捨てて、全体のために尽くせと強制された。ここには個人の尊厳は無視される。ところで、全体の意志が簡単に表現できるわけがない。だから簡単に、全体を偽装した「誰か」の意志が人々に押し付けられる。

 「誰か」が個人か集団であるかはともかくとして、全体主義は独裁政治を招く。理屈でいえば、この構図が1945年敗戦までの日本国であった。蛇足ながら、戦争体制とは全体主義そのものである。

 自民党は日本国憲法を変えることを党是としている。もちろん、民主主義を転覆するとはいわないが、2012年の自民党憲法改正案を読めば、限りなく全体主義政治へ転回させる意図が明白である。つまり、第9条改憲だけではない。本音は民主主義を全体主義に戻す狙いである。自民党の保守主義とは、復古主義でもある。

 憲法実施77年、日本国憲法が定着してこそだが、なにしろ政権を担っている政党が全体主義への改憲志向をもっているから穏やかではない。問題は、それとコインの裏表みたいなものだが、人々の民主主義意識が健全に育っていないのではないか。民主主義下に生まれても、自然に民主主義者になるわけではない。

 民主主義の前進は、人々がいかに学んで思索しているかによって決まる。

 ハンナ・アーレント(1906~1975)『人間の条件』(1958)の一節を紹介しておこう。

 ――現代は、大衆を組織する方法を知りえたならば、すべてが可能と考える、人間の全能性を信奉する人たちと、無力感だけが人生の主要な経験になってしまった人たちとの間に、人類は2分されている。――

 このような人々の意識構造が全体主義を育てる温床ではなかろうか。民主主義は、つねに全体主義の落とし穴にはまる危険性があることを、くれぐれも忘れてはなるまい。個人の尊厳によって立つのは自分自身である。日々、そこから出発する意識があれば全体主義を恐れる必要はない。

 日本国憲法は全体主義を排す。その毅然たる姿勢が維持できれば、国を戦争の道に踏み込まさずに済む。