くらす発見

気晴らし・手慰みの効用

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 昨日の「趣味なる言葉の深奥」で、気晴らし・手慰みを埒外としたように受け止められると不本意なので、もう一つ、話を追加する。昨日の話が理想論とすれば、今回は現実論である。

 なにしろ、人々から気晴らし・手慰みをなくしてしまったら、とても長い人生を航海できない。退屈の虫が治まらない。

 1990年代だったか、CFで秀逸な作品があった。時は平安朝か、頼りなげな公家が座布団かなんかに乗っかっている猫を見て、「猫はいいのう」とつぶやく。なるほど、路地裏の自由猫にしても、生活の糧を追わねばならないが、それ以外は実に悠々自適である。まして、飼い猫ともなれば、衣食住の心配はない。「いいのう」なんである。

 ところでこれには伏線がある。旧約聖書によれば、アダムとイヴが楽園を追放されたものだから、人間は食うためにあくせくさせられる。すなわち、労働が神による人間への罰である。

 ところが、日本人はどうも違う。最近、ひところに比べるとずいぶん静かになったが、いくらでも長時間労働をやる。自分から、わざわざ重たい罰を担っている。その理由は、仕事がないと、やることがなくて退屈で、堪らない。なんのことはない、神の罰は退屈しのぎの気晴らし・手慰みというわけだ。(まあ、それはそれで大したもんだという説もあろうが)

 公家が働いていたのかどうか、怪しいものだが、単に働かない猫を見てうらやましいのではなく、気晴らし・手慰みがなくても泰然自若、悠々自適のそぶりを見て、退屈しない猫をうらやんでいる。

 パスカル(1623~1662)は、「考える葦」の着眼で非常に有名である。先生もまた退屈を甘受できない人間に着目した。『パンセ』のなかに、次のような指摘がある。いわく――

 王様は退屈しない。周囲の連中が、王様が退屈しないように、つねに周囲で、面白いことや、愉快なこと、誰でも浮世の憂さを忘れるように騒動しているからである。非常に結構なのであるが、つねに王様に注目させることによって、実に、王様はなにも考えない。まことに、憎い展開である。

 消費者は王様だという言葉がある。わたしはアンチ・テレビであるが、タクシーに乗るとなんとも形容しがたいCFの垂れ流しに出会う。自社商品の宣伝だということはわかるが、作品の質が粒ぞろい! に低質である。これでは王様の取り巻きどころではない。で、王様は怒って目を閉じるか、画面を消す次第だ。(勉強のために、なんどか我慢して見た結果である)

 脱線した。問題の核心は王様が物事を考えなくなることだ。

 物見遊山というが、日本人が個人で外国旅行するようになったのは1980年代である。バリへ行った。ニューヨークへ行った。東南アジアへ行った。個人的帰国報告の多くは、日本がいちばんよろしいと語る。

 たまに趣味のいい人がいて、「どうも、日本人の眼差しがトロンとしている」とお話になる。経済大国になったが、どうやら、悠々自適ではなかった。ひたすらごった煮的騒動を繰り返していたようだ。

 あれから40年が過ぎたのである。

 追伸 官制ワークライフバランス論が、いかに人々の意識を捻じ曲げたか。これ、自民党の裏金問題よりも質的に重大である。