週刊RO通信

明治の進歩的人間観

NO.1543

 「降る雪や 明治は遠くなりにけり」と、中村草田男(1901~1983)が詠んだのは1931年3月であった。その9月には日本軍が満州事変を起こし15年戦争に足を踏み入れた。わたしが、遠くなった明治のイメージで思いつくのは、――Boys be ambitious――である。

 青年よ、大志を抱けという、この言葉は、1876年に札幌農学校教頭に着任したウィリアム・スミス・クラーク博士(1826~1886)が、翌年、北広島で語ったとされている。知らない人がいない有名な言葉である。

 札幌農学校の第一期生は16人ほどだが、その後の博士によるキリスト教伝道活動において影響を受けた人は極めて多い。

 これは、大志を抱くような人間になれという意味と、その大志を実現するために奮闘努力せよという意味が含まれている。禁煙程度では大志といえないだろうし、大志らしきものを掲げておくだけではクラーク博士の呼びかけに応じたことにならない。

 わたしが組合運動に関わり始めた1960年代前半には、「青年は未来を担う」とか「未来は青年の双肩にかかっている」という調子の演説が多かったが、1970年代後半にはそんな演説をするのはかなり旧式思考とみられて、青年諸君の表情が白けたものだ。これなどは戦後民主主義を表現する言葉でもあったが、戦後も遠くなりつつあったといえよう。

 それは横へ置いて、とにかく、クラーク博士の言葉は明治の青年たちをおおいに元気づけた。

 クラーク博士に直接薫陶をうけなくても、有為の人士は大いに大志を抱いて奮闘したのである。つまり、これは明治の気風といってよかろう。たとえば竹越与三郎(三叉1865~1950)は、名演説家として評判が高かった。

 やがて西洋史研究から同時代的に内面化し、きわめて柔軟な思考で知の最前線に立ち続けた林達夫(1896~1984)は竹越演説の大ファンの時期があり、『三叉演説集』を読んで演説の練習をしたと述懐している。演説勉強期後半は芦田均(1887~1959)の、思索しつつ語りかけるスピーチのほうがよくなったというように、竹越は文字通り演説だった。

 その内容は青年たちに呼びかけるもので、大志をもって海外に雄飛せよという調子である。もちろん、それは植民地奪取の先頭に立てというようなものではなく、狭い日本に埋もれるのでなく、国際人として通用する人材たれと呼びかけた。竹越ファンは大変なものだったというから、大志を抱け、は明治の1つの風潮だったといえる。

 教育の分野で活躍した新渡戸稲造(1862~1933)は、おおいに教育を語った。人間を育てる教育が必要なのに、そうなっていないことを強く批判している。たとえば、学生は学理より及第することばかりに熱中する。その精神は野卑になると厳しい。

 新渡戸稲造がめざした人間は、社会に立って、社会にいる人である。ところが、日本社会は、「人」に関心が薄く、地位や金銭に熱を上げてしまうから教育が不純になる。新渡戸によれば、明治20年ごろまで日本語には人格personがなかったという。

 クラーク博士の大志を抱け、には人間としての成長の重要性がビルトインされている(と、わたしは思う)が、1890年前後になると、その肝心かなめが忘れられて、浮ついた出世主義・功利主義が目立っていたようだ。

 『学問のすゝめ』の福沢諭吉(1834~1901)は品位があるが、日清戦争勝利後の彼には品位が感じられない。そして、それが時代のトレンドであったことは疑いない。

 勝海舟(1823~1899)は、「満腹の不平だ。三十年、己が苦心して立ててやったものを、みんなが寄ってたかってぶち壊そうとするから不平だ」という表現で、日清戦争勝利に浮かれている気風、金銭至上主義の気風、品位のない人間性などを痛烈に批判した。

 品位あるものは長続きせず、つまり、明治は遠くなった。野卑なものはおおいに繁栄して現代も明治の真っただ中にある。岸田的自民党が、後者であることは言を俟たない。世直しするのも容易ではない次第である。