月刊ライフビジョン | ビジネスフロント

食べることから社会を考える

渡辺隆之

 この夏は酷暑だった。温暖化による作物の生育不良、円安による輸入食材の高騰が今後も続くとなると、当たり前の食卓が当たり前でなくなる。そんなとき、ふと料理研究家で随筆家の辰巳芳子氏の名前が頭に浮かんだ。

 辰巳氏は現在98歳。病床の父・辰巳芳雄へ提供したスープが「いのちのスープ」として話題となり、長年スープ教室を開催していた。日本の農業と食について深い関心を持ち、70歳で「よい食材を伝える会」を、80歳で「大豆100粒運動」を始める。交流関係も料理人・医師・科学者・生産者など多彩である。コロナ感染拡大防止の自粛が解けた現在は、人気のスープ教室はお弟子さんが引き継ぎ、辰巳氏の哲学を広めている。

 現在はコストパフォーマンス、タイムパフォーマンスが求められる。しかし、辰巳氏のスープ教室はこれとは相反する。食材の選び方から始まり、調理方法に至っても手間暇かかる。にもかかわらず5年待ち、10年待ちと大人気なのだ。それは、辰巳氏の「いのち」に対する姿勢にブレがないからだろう。

 誰でもいのちを全うすることは大仕事である。それゆえ、誰かのいのちを支える仕事は楽をして手抜きをしてできるはずがない。いわば職人気質ともいえる信念と「人」への愛情が、人々の共感を呼ぶのだろう。

 辰巳氏がいのちに執着するには理由がある。戦中戦後の厳しい生活に加え、結婚して3週間後に夫がフィリピンに出征、のちに戦死する。自身も25歳から40歳まで15年間、結核での療養生活を強いられる。人生が好転してきたのは40歳を過ぎ、料理家の母・辰巳浜子を手伝うようになってからである。常に自身や近しい人の死と向かい合ってきたことに原点があるのだと推察する。

 デービッド・アトキンソン氏のように、「見えないところまで清掃することは必要ない、もっと他のところに力を注いで、生産性を上げるべき」との経済合理性・生産性を強調する立場の方々も多い。しかし、人々は経済数値のみで生きるのではない。数値目標至上主義、資本主義が過度に強調されることでモラルの欠如、貧困の格差、社会の不安定化、産業の空洞化を助長する気がしてならない。

 現在、インバウンド需要が大きい。単なる円安のみが原因でなく、他人の目の届かないところにも手を抜かない日本の先達たちの丁寧な仕事ぶりや作品に惹かれるからである。特に、わが国は火山国で地震や自然災害も多かった。先の大戦では焼野原になったところから立ち上がってきた。仕事に手間をかけ、他人に情をかけ、相手の立場を考えながらお互いに助け合ってきた国民性がある。職人気質的な部分はDNAに残っているにちがいない。

 スマホの普及で、自分の都合のいい情報に囲まれ、ChatGPTでインターネット上の情報を切り張りすれば一応、仕事らしき体裁は整う。しかし、そこに確固たる信念はあるのか。広い目で見て本当にバランスの取れたものといえるのか。熟考し悩みの痕跡はあるのか。山川海空がつながっているのと同様、この社会も経営者のみならず消費者・生産者・各分野の支援者とつながっている。

 日々の気忙しさにより食事さえ何か口に放り込んでおけばよいというように近視眼的になっていないか。食べることは生きることである。自らの身体をつくる食材について、その栄養に加え、食を支える人々、豊かな食、安全な食、安定供給されるための手段等について、もっと想いをめぐらせたい。

 日本は経済的にも貧困になったというが、食の貧困、心の貧困、思考の貧困の方が大きな課題のような気がする。選挙の投票率が上がらないのはそのせいではなかろうか。食材を通じて、身近なところからもっと心地よい社会、より安心安全な社会がつくれないものか、しっかりと時間を使って考えたい。