週刊RO通信

死もまた社会奉仕--石橋湛山

NO.1479

 山県有朋(1838~1922)が小田原の古稀庵で病没したのはちょうど100年前の1922年2月1日(大正11)であった。

 山県は長州藩士時代、吉田松陰の松下村塾で学び、長州藩で組織された非正規軍の奇兵隊軍監となる。奇兵隊は、下級武士や豪農の有志が志願して構成された。第二次長州征伐(1866)、戊辰戦争(1868)で戦闘に活躍するが、1969年(明治2)に藩命で解散を命じられた。山県は武士から軍人へ、陸軍を創設、陸軍大将、元帥、公爵、明治の元勲として病没するまで、軍・官界に巨大な山県閥を形成し、政治に絶大な権力を揮った。

 山県が死去した際、東洋経済新報で論陣を張った石橋湛山(1884~1973)が「死もまた社会奉仕」(1922.2.11「小評論」)と題する論説を書いた。

 先に大隈重信(1838~1922)が死去し、維新の元勲が去っていくのは寂しくも感じると筆を運び、「しかし、世の中は絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって初めて社会は健全な発達をする。人は適当な時期に去り行くのも、また一つの意義ある社会奉仕でなければならぬ」と主張した。要旨を書く。

 ――とくに、山県公は、最後まで政治に大きな力を揮った。本人にすれば、国家を憂うる至誠の結果であったことは間違いない。しかし、いかに至誠から出て、いかに考えは正しくても、1人の人間が久しく長きにわたって絶大の権力を占めれば、弊害が発生する。

 表面で踊る人形が変わっても、操る者が変わらなければ新味が出ない。山公の引く糸に制限された傾向が大きい。糸を引く人の意志に罪がなくても、操る者と操られる者の関係に必然的弊害が発生した。老練な操り師がいなくなったので、人形はとんでもない踊りを踊るかもしれないが、踊りには活気を帯びるだろう。人形そのものはだめだが、操り師の権威で舞台に上がり得るというような者は後を絶つだろう。この意味において、わが政界に一大転機を画すものである。

 たとえば、政党はうかうかと陸軍縮小など叫べない。それは陸軍閥が怖いからであり、陸軍閥の背後に絶大の権力を有する山公が控えていたからである。彼らは国民の機嫌は取り得ても、山公の機嫌を損ねては、自分の将来が見込めないと思ったのだ。――

 湛山は末尾に、2月3日衆議院に山公国葬予算が提案された際、反対した議員が2名いたことを指摘する。大阪選出の南某、森下某である。世間は、これを見て驚いた。さっそく時勢の変化が現れたか。

 ――両氏が、山公は政治的罪人であると説いたが、これには反対。断定するには議論の余地があるからだ。しかし、世の中には親の葬式さえ営めない貧民がたくさんいる。にもかかわらず、その貧民が納めた間接税で山県公の葬式をおこなうとは何ごとかと叫ぶについては、然り、然りだ。「売名議員」と罵った者があるが、自分はそれでも構わない。人を取らずして、その言を取る。正しい主張に対しては叩頭する。それが自分の主義である。

 議長は、「他人の身上にわたって論議することは許さない」と注意したが、国葬案そのものがすでに他人の身上をよいほうに批判したものではないか。山公を評価した案が出たなら、その討議が身上にわたるのは当然、議長の命令は、国葬などということの不自然を示すものにほかならない。――

 安倍氏葬儀で、友人代表菅義偉氏は、安倍氏が岡義武『山県有朋』を読んでいたとして、山県の伊藤博文(1841~1909)にたいする心情「かたりあひて 尽くしゝ人は先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ」で弔辞を締めくくった。全体になかなか見事な文章、なによりもセンチメンタリズムがこぼれ落ちる表現であった。政治家、ことに保守党においてはリアリズムが身上だから、それなりに意外感を持った人が多かったであろう。

 しかし、(安倍氏が)周りの人たちに心を配り、やさしさを降り注いだとか、あなたがわが日本国にとっての真のリーダーでしたなどと持ち上げるのは、いかにも身内ボメである。心を配られなかった「こんな人たち」や、真のリーダー像に一家言ある人たちにとっては、どこかの特定集団の呪文のように聞こえて、センチメンタリズムそのものに、寒気がしたのではなかろうか。そこで、毒消しのために、正露丸ならぬ石橋湛山丸を服用した次第だ。