月刊ライフビジョン | 家元登場

タイムパフォーマンス

奥井禮喜

古いモデル

 次々にいろんな言葉が登場する。今度は、タイムパフォーマンスという新顔だ。コストパフォーマンス(費用対効果)から作られたそうで、つまり時間対効果、時間消費の価値を意味するらしい。以前、生命保険会社の宣伝で、アヒルが、おカネが大事だよーとしゃべっていたが、カネ、カネではなく時間の大切さに関心が向いたのは上等である。筆者は1989年に『財テクから時テクへ』という本を上梓した。バブルで浮つき、未曽有の経済的繁栄といいつつ、たかが小銭は握ったものの、少しも豊かさ・ゆとりが感じられないという社会的雰囲気に対して、一石投じたかった。簡単にいえば、明治近代化以来、先進国に追い付き追い越せ一本鎗でやってきた。いわば稼ぐに追い付く貧乏なし論、貧乏からの脱出というのが明治から122年過ぎても日本的生き方論みたいである。いつまでも、そんな古いモデルでやっていけるのだろうかという問題意識であった。

心のバブル

 あまり見たくもない光景が展開されていた。つまらない事例だが、40代の某くんが、「私の最近の楽しみがなんだかわかりますか?」という。もちろんわかるわけがない。「建売住宅を買ったんですが——」、「新居で家族揃って夕餉の食卓を囲むってことか」、「違います、毎週住宅情報誌で、我が家の価格が上がるのが楽しいんです」。少し前までは、海外へ行くのはエリート社員の出張で、各人が自分のおカネで遊びに行くなんてのはほとんどなかったが、海外へ行ってきたという話が増えた。それはおおいに結構なのだが、たとえば「パリなんて薄汚い街だし、東京のほうがはるかに活気がある」という調子の妙な自己満足感を語る人が少なくなかった。パリのヴィトンの客は日本人ばかりだと話題にもなった。ようやく先進国に互したのだから、しっかり、地に足をつけてやろう、というような気風はさらさらない。「隣の車が小さく見えます」感覚では浮ついているだけである。

自分の「なにか」

 筆者が長年主張してきたのは、相対元気ではなく、絶対元気である。自分より低位、あるいは劣っている対象を踏みつけて出るのは相対元気にすぎない。誰でも、人生を元気に生きたいと願うはずだが、自分以外の他の対象によって自分の元気が左右されるのでは本物ではない。健康であれば元気、おカネがあれば元気というのが世間常識みたいだが、よく見れば、そんなに簡単に類型化できない。元気な人に共通するのは、いずれも自分が追いかける「なにか」を持っておられる。「なにか」の概念を作り出したのは、自分自身であるし、極端にいえば、他人がなんと言おうと、わが道を歩むわけだ。これを絶対元気と称して、筆者の推進する人生設計論の柱である。自分の元気は自分で考えて培養するしかない。「元気をいただきました」などとやっていたのではいかにもひ弱い。明治以来の日本を脱却するには、1人ひとりが内なる元気エネルギー開発に着手せねばならない。

またまた隘路?

 節約しようが、無駄にしようが、時間は徹底し過ぎ去っていく。時間は万人共通の存在である。たいがいの人は「忙しい」という。忙しさを楽しむ人もいれば、忙しさに沈没しそうな人もいる。人生に手応えを感じていれば充実感がある。忙しいだけで手応えがなければ人生を消耗しつつ生きていることになる。未来を確信できなければガマンにエネルギーが吸収されるだけでロマンがない。「人間は自分がなろうとするものになる」という言葉はきわめて短いが、自分自身と人生のあり方を凝縮している。提案した「時テク」は、これを実践する生き方のすゝめであった。いままた時間に注目が集まったのは結構だが、時間=人生をコストパフォーマンス的発想で考えないほうがよろしい。それはかつて失敗した「財テク」と同じ隘路に入る。短縮した映画や文学を見て、タイパしたと思うのであれば、すでに時間=人生の浪費である。おそらくみなさん、ますますくたびれるだろう。