週刊RO通信

全体主義の危険性

NO.1561

 戦後79年、日本人は全体主義の呪縛から脱出できたのだろうか。敗戦までの全体主義を知らない人がすでにほとんどである。懐かしむ(?)にしても、嫌悪するにしても、全体主義時代を知らない人ばかりである。わたしは直接知らない世代に属すが、知りえた知識からしてご免こうむる。しかし、知らない世代であっても全体主義が頭に巣くっている人はいる。

 民主主義(人間の尊厳)は全体主義と対極にあって、全体主義を真っ向否定する思想に支えられている。徹底した全体主義のプロパガンダによって意識を支配されていた人々は、敗戦直後には茫然自失状態だったが、少し時間が過ぎると、全体主義に振り回されて危うく命を捨てる瀬戸際から立ち返ったことを理解し、二度とあんな難儀な時代には戻りたくないと考えた。

 全体主義の体験がない人よりも、体験した人のほうが全体主義に対する抵抗力を身に着けているはずである。しかし、単純にそうとばかりはいえない。人間は嫌な記憶は捨て去りたいだけではなく、それを美化して記憶にとどめようとする性癖がある。特攻隊の真実は残酷悲惨極まるが、それに倒錯した美を感じ、ロマンチシズムを掻き立てられたりする。もっとも全体主義の悪しき結末の事件が一転して、全体主義称揚に変化するわけだ。

 戦争に協力した知識人らが、戦後しばらくはその負い目を担って沈黙していた。しかし時間が過ぎて戦争から遠く離れると、負い目を担っているのが嫌になって、かつての自分を正当化するために、次第に戦争肯定論を打ち出すようになるケースは少なくない。これは典型的な自己欺瞞である。

 名古屋市長河村氏のように、祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だとはぐらかす手合いもいる。多くの方々が戦地へ引っ張り出されて亡くなった。ご本人がお国のために命を捨てたのは事実である。だからといって国家権力を駆使する連中が無謀な戦争を始め、不埒な戦争指導をおこなった罪が償われるわけではない。河村氏も政治家なんだから、死の道徳を語るよりも、戦争を遂行したことに対して徹底的な反省を語らねばならない。

 全体主義には、それをアピールすることによって、人々、とくに理想主義者を惹きつける傾向がある。わが身を顧みず、みんなのために命を捨てる行為にはだれでも低頭するものである。しかし、敗戦後、戦争を指導した連中で積極的に自分の責任を語ったケースはほとんどない。自分は命令に従っただけだと弁解したのである。まことにたいした非道徳的態度である。

 理想主義者はくれぐれも注意しなければならない。なにしろ理想しか見ていないものだから、悪しき現実主義者のプロパガンダに乗せられやすい。敗戦後、圧倒的多数の国民が「騙されていた」ことに気づいたはずであった。ただし、なぜそうだったのかを自分自身がじっくり考えて反省しなければ、経験知として身につかない。

 人間は不確かなものである。自立という言葉を知っていても、自立して生きるのはなかなか難しい。自分自身が自立しているという自尊心の保持があやしくなったとき、自分以外のなにかにすがりつこうとする。人生とはなにか? の回答が見つからず、苦悶に疲れ果てた好青年が、ナチの呼びかけに飛び込んだ事例は多い。

 そこには、断固とした意志があり、自分の全身全霊をかけろという強烈な命令がある。「なぜ?」を放棄して、なにか大きな大義、イデオロギー、運動、それを命令する指導者の下に馳せ参ずれば青白い煩悶ときっぱり縁が切れる。すべてを放棄してなにかに同化することによって、自分のプライドを回復しようとする。ただし、これは自身の内的欲求をすり替えたにすぎなかった。

 ホッファー(1902~1983)「情熱には自己逃避が潜んでいる」という言葉は噛み締めるほど味がある。自分自身の欲望は、いわば自己否定の意思表示である。その情熱が激しいほど自己逃避の落とし穴が大きいだろう。「みんなのため」というのはたしかに自分を委ねる価値がある。それだけに、プロパガンダの大きな下心が見えにくい。

 人間の尊厳=個人主義について、だれもが確信していれば全体主義に惑わされることはない。言葉は美しいが、これを理解し、実践する人生を歩んでいくのは言葉ほど容易ではない。