週刊RO通信

自分の人生じゃないか

NO.1560

 もう50年も前の体験である。年功序列制度だから、中高年世代になれば少しはいい暮らしができると思っていたのに、現実はちがうじゃないかという抗議が起こった。若年層賃金が相対的に高くなってきたのと、住宅ローン返済、子どもの教育費などの出費が重たく感じられていた。

 こんごの中高年自身の生き方を追求することが、若者たちの未来を照らす。組合挙げて全国的に中高年学習会を立ち上げた。その過程でわたしは頭をゴツンとやられたような衝撃を受けた。昭和も遠くなった現在の人々には、容易に理解できないかもしれないが、大事なことなので書きたい。

 当時の中高年世代の青春時代は戦争である。忠君愛国、尽忠報国、国のために死ぬのが人間の本懐であると叩き込まれた。人の命は鳥の羽のように軽いもので、滅私奉公こそが、与えられた人生の目的だという教育である。

 戦後、彼らは無意識のうちに滅私奉公の対象を会社に置き換えていた。会社と自分は一体である。ひたすら尽忠報社することこそが人生だ。ところが高度経済成長が終わり、獲得するパイ(利潤)が小さくなって、経営側は「これからは会社にぶら下がってもらっては困る」と言い出した。

 中高年にしてみればぶら下がってきたつもりはない。会社への忠誠心を柱にして生きてきたのに、そんな言い方はない。若いときには将来のために精励せよと言った。歳をとって使い勝手が悪くなって中高年排斥に転換したのか。実際、世間の会社では中高年排斥の動きが目立っていた。

 組合が始めた勉強会は、会社中心の勤め人教育ではない。働いて人生を作っていく期間は短くない。人間はその行動を、おかれた環境・状況において、主体的に決定することを不断に繰り返さねばならない。だから、人間=個人として環境・状況を透徹するとともに、自分自身の来し方を振り返り、未来を考える必要がある。

 勉強会は、ほとんどグループでの話し合いを中心に進めた。お互いに自分を語り、仲間の見識を知り、過去を振り返り、未来に思いをはせる。縦社会・上意下達の意識で働いてきたものだから、人生を縦横無尽に考えて、話し、かつ考えるという雰囲気は予想以上に効果を発揮した。

 その過程で、ある人が、「自分の人生なんて考えたことがなかった」と語った。会社人生はあったが、自分の人生を考えなかった。これは同世代のだれもが共感して受け止めた。民主主義が個人を出発点としていることを、理屈ではわかっている。しかし、意識の底流は昔のまましたたかに残っていた。

 ヘラクレイトスは「パンタ・レイ」、万物は流転すると主張した。たしかに世界は無常、すべてが変化して止まらない。人は、変化して止まらない環境・状況を受け止め、働きかけて、自身の人生を作っていくものだ。自分が、大きな構図の中に生きていることを確認した人たちの心境の変化は著しかった。

 いったい活力ある人生とはなんだろうか! いままで、右を見て左を見て、横並びこそ大事と考えてきた。当然ながらそれでは、自分がなにをしたいのかという視点が軽視されている。そうだ、活力=元気な状態とは、自分がしたいことをしているからだろう。では、自分はなにがしたいのか!

 自分がなにをしたいのか、という問いかけは直截的であるが、即答できる人は多くはない。だから、自分で考え、仲間と話し合い、自分自身の考え方を深めていくしかない。

 自分は所詮社会の歯車の1つにすぎないと思っていた。ところが、自分自身の人生を沈思黙考していると、どうも違うみたいである。非力ではあるが、1人ひとりが集まって社会を作っていると考えるべきだろう。中高年の勉強会に参加したみなさんは、わがうちなるコペルニクス的転回を引き起こした。

 「いきがい」とは、自分自身が価値を感ずる生き方をしていることである。そのような感性に至るためには、自分自身がしたいことを考え、それに向かって人生を作っていくべし。なるほど、人はなにかを追求しているとき、まちがいなく元気である。人は自身の生き方を追求しているから虚無の桎梏を取り外せる。「これは自分の人生なんだ」と思うとき、人は、日々自分の人生を創造している。

 ゴールデンウイーク、自分再発見の時間をお過ごしくださいませ。