論 考

ウクライナの悲痛

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 ウクライナが、在外男性に従軍を促すために領事館サービス停止で圧力をかける。対象は18歳から60歳までだ。当局者は、「祖国を破壊から守るのが最優先だ」と断定する。

 武器弾薬不足だけではなく、50万人兵員不足がだいぶ以前から喧伝されていた。海外にいる人々は、ついに来るべきものが来たと思っているだろうか。自分が生命を捨てればロシアを追い出せるというものでもない。

 国外に出ている人は640万人ほどで、430万人ほどがEU各国内にいるそうだ。そのうち20%以上が男性だという。以前から徴兵に関する汚職が報道されている。そろそろ自分の出番だと割り切って帰国できるだろうか。

 そもそも志願する人々はとっくに戦場へはせ参じた。多くの人々が、前線で倒れるか、負傷して前線を去っている。残っている人々は疲労困憊、なんとか休養がほしい。報道から想像するだけでも戦場の事態は悲惨極まる。

 無理にでも徴兵すれば人数は揃えられるだろう。しかし、戦争拒否か、厭戦気分かはともかく、志願しなかった人々を戦場に引っ張り出しても、十分に適応するかどうか怪しい。志願した人々との精神的葛藤も無視できない。

 民主主義の大骨は、人間の尊厳であり、人命尊重が当たり前である。もちろん、ことはロシアが不条理な侵略をしてきたからであるが、それを全面に押し立てて、「祖国を守ることが最優先だ」ということになれば、結局、個人は国家のための捨て石であって、すでに国家主義であり、個人の人権は鳥の羽みたいなものだ。

 誰もが、自分が捨て石になれば祖国を守られるのかという難問を突き付けられている。国とは、人民の生命の集合体である。とんでもない侵略者とは戦うしかない。と、割り切れば話は簡単であるが、そうはいかない。支援国がせっせと武器を援助すればいいというものでもない。

 しかも、戦況はウクライナにとって相当厳しい。理不尽な侵略者に対して決然と立つ「精神」だけでは戦争は終わらない。現実に、ロシアとの間で圧倒的な軍事力格差がある以上、蛮勇(あえていう)だけで戦うのは、死に価値があると美辞麗句を並べるのとなにも変わらない。

 アメリカ、NATO、EU、それになんらかの関係がある国々は、ウクライナの人々の生命を尊重して、速やかに停戦への状況を開拓するべきだ。人が生命を捨てざるを得ない事態を、民主主義のため、国家のためという言葉で当然視するべきではない。