論 考

労働組合の原理と資本主義の視点

筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

 ―停滞・衰微が甚だしい労働組合は、労働組合をなす「原理」を思い起こし、運動の歴史を顧みて、立ち向かうべき根本問題を、資本主義を乗り超えることにあるとして、その再興を考えてみてはどうか。

「21世紀成熟社会の理論」プロジェクト

 縁あって、「21世紀の成熟社会の理論」というプロジェクトへの参加を招請された。プロジェクト設置の目的は、社会変化に対応できず停滞・衰微に瀕する労働組合とその運動を再興するための論を提起することにある。

 背景には、近代社会が成熟し、その大きな見直しが迫られる時代の局面に、現代があること。また、そのようななかで、人びとが、社会はどこへ向かおうとしているのかという認識や指針を持てずにいるという視点がある。(*1)

 私は、労働組合とその運動の再興とは、次代社会の構想を描き、その実現に向けた労働組合の運動論を構築し、労働組合が、社会変革の運動を築いていくことだと捉えた。それは、私の最大の関心事であり、我が意を得て、プロジェクトに参加してきた。

「正義論」と資本主義

 このプロジェクトで、ジョン・ロールズの『正義論』に端を発する「現代正義論の新たな視座」という講義を聴講した。ロールズの『正義論』が提起された1970年代は、ニクソンショックや石油危機により、世界中の資本主義が危機に瀕し、その克復に向けて新自由主義が跋扈し始めた。ロールズは、この時代を背景に、正義に適った社会の原理を「分配的正義」とした。(*2)

 『正義論』が語られざるを得なかったのは、貧困や格差、社会の分断といった資本主義がもたらす問題にあった。ロールズは、この問題解決のための代表的な社会政策である福祉国家については、否定的だった。それは、資本主義経済体制を温存したままでは、少数経済権力者の社会的支配が払拭されず、政治的諸自由の平等が守られず、「機会の平等」に必要な政策を歪めると危惧したからである。しかし、ロールズは、資本主義を真っ向からは否定しなかった。

プロジェクトへの問題提起

 プロジェクトが始まって1年半、なんどか識者の聴講は重ねるものの、遅々として、問題提起の見取り図さえ、いまだままならない。

 今回の講義を聴きながら、「現代正義論の新しい視座」がテーマとなったのは、資本主義が、相変わらず人間社会に害悪を撒き続けているからだと、私は受け止めた。だから私は、この取り組みの進捗の停滞もあり、このプロジェクトの本質のテーマは、資本主義を乗り超えるところにあるのではないかと、提起してみた。

 プロジェクトの主査は、資本主義の温存から、それを乗り超えるという論の間には、これまでの歴史的経過(労働運動の勃興、福祉国家建設、コーポラティズムの実現等)も含め、資本主義を改良し、人間にとってより善い社会を構築するということが可能であったし、これからの可能性もあると。よって、この間(あいだ)を抜かして、議論を振り過ぎぬようにと、答弁した。時間が来て、それ以上の議論には至らなかった。

「資本主義とは何か?」という学び

 資本主義とは、「資本蓄積が無限となっているシステムであり、無限の資本蓄積が優越するシステムである。」(ウォーラスティン)」といわれる。

 現代は、この「無限」とするところに、地球の「有限性」が対置され、人類社会は持続可能性の危機に瀕する事態となりつつある。そしていま、「資本主義の終わり」が、様々なかたちで議論され喧伝されるようになっている。それは、資本主義の終わりが予見されるような事象が、世界中で噴出して止まないからだ。

 一方、資本主義は、改良を施せば危機を打開することができ、終わらないという論がある。さらには、ITや科学技術によって、地球の「有限性」を克服できるという論もある。この、資本主義が「終わる」という主張、そして、資本主義は「終わらない」とする主張が、せめぎ合うのが現代だ。

 このような状況は、資本主義のその先が、いまだ見通せていない事態にあることに起因すると、大澤はいう。(*3)それは、資本主義が経済システムに留まらない、より包括的な社会的現象であり、私たちの暮らしや考え方、生き方に深く沈着してしまっているものだからなのだとする。

 しかし、資本主義の以前には、非資本主義の社会システムがあり、そこにも人間としての生き方があった。この歴史に学び、その社会の原理に学んで、資本主義社会を相対化して、次代を構想することが可能ではないのだろうか。私は稚拙ながら、そう考える。そろそろ、人類は、資本主義のその先を、見極めるべき時を迎えているのではないだろうか。

 会議終了後、主査と簡単に言葉を交わした。私は、資本主義ではない経済社会システムが、どのようなものなのかは、いまだわかりかねる。だが、資本主義が問題の根本ならば、少なくとも「資本主義とは何か?」について深く学ぶことを、労働組合は、取り組み課題とすべきではないかと指摘した。

労働組合の原理からの再興へ

 労働組合とその運動の停滞・衰微が止まない。僅かだが、その前線に関わりをもっている身として強く感じることは、役員の甚だしい劣化現象だ。そしてなんどか論考にも書いたが、官僚化が甚だしく、運動ではなく組織の維持管理そのものが目的化している。世の中は変化して止まらないのだから、これまでの組織のあり方、活動のあり方に拘泥すれば、組織はその存在意義を失う。

 当然、そのような組織を構成する人びとの、人間としての成長機会も、ことごとく失われることになる。つまり、その組織は、社会的資源を浪費するだけの不要な存在となり、社会にとって害悪とさえなりうる。

 どのような立ち位置から、どこを目指して、労働組合とその運動の再興を果たすべきか。やはり、労働組合という存在を、この人間社会に生み出した、その「原理」に立ち返ってみてはどうなのだろうか。それは、働く仲間の「こう生きていきたい。」という「思い」に至る行為であり、人間行動の根源的な動機にあるからだ。

資本主義に立ち向かう

 18世紀末、労働組合の萌芽から、今日に至るまで、労働組合とその運動を形成した「原理」とは、働く人びとが、もっと人間らしく、働き、暮らし、生きていきたいという「思い」にあった。そして、同じ境遇、同じような生涯を送るかもしれないと思われた人びとが、手を取り合って助け合えば、その「思い」が可能になるかもしれないと信じて、集まった。その共同体が、原型となり、労働組合という組織に帰結し、その運動が展開され、次代を生み出し、今日がある。この「原理」は、いまだ不変だと私は思う。

 そしてその「思い」は、問題の根本である資本主義を乗り超えようとする思想と運動に結び付いていった。しかし、歴史的にその試みは、資本主義を延命するものでしかなかった。資本主義は、いまだ人間社会に害悪を振りまき、危機に瀕する事態をもたしている。労働組合とその運動の、資本主義を乗り超えるという視点に立てば、いまだそれはなし遂げられてはいない。だからこそ、この課題に立ち向かうべきではないのだろうか。

まとめ

 無論、労働組合とその運動の再興は、足元から、具体的にどうするのかの論を要することも承知している。しかし、労働組合の「原理」と立ち向かうべき資本主義という観点を持つことが、本質に適った取り組みをより可能にする。

 労働組合を形成する「原理」に立ち返り、資本主義を乗り超えるというテーマに、私たちは、その大きさ、難しさに怯むかもしれない。しかし、それは、学ぶこともしないという理由にはならない。大切なのは、いま何をなすべきかを決めることだ。決めれば、前に進めるし、理論を積み上げられる。

 縁あって巡り合った組合役員、自分自身の「思い」に耳を傾ければ、自分の人生にとって価値ある時間を過ごそうとの思いに至るはずだ。学んで考えて、そして決めることからは、逃げないでいたい。

<参考文献>

1)「21世紀の成熟社会の理論」プロジェクト資料、出所・公益財団法人国際経済労働研究所、2022年

2)「正義論の新たな視座―ケイパビリティ・アプローチ」神島裕子(立命館大学心理学部教授)、RESERCH BUREAU 論究(第20号)寄稿論文、2023年

3)「資本主義の<その先>へ」大澤真幸、筑摩書房、2023年