くらす発見

穢れなき彫刻家、逝く

筆者 渡邊隆之(わたなべ・たかゆき)

 去る3月29日、彫刻家の舟越桂さんが72歳で亡くなった。人生100年時代と言われるなかでは、あまりに早すぎる死である。肺癌だった。

 筆者が若い時分には随分と美術館に足を運び、舟越桂さんの彫刻作品とも対峙した。小説家天童荒太氏の「永遠の仔」の装幀にその作品が使われていたので、多くの方は書籍を通じて目にしたはずだ。人間の半身像、クスノキを使い、目には大理石。大きなモチーフは変わらず、作品はいつも荘厳さに包まれていた。

 かつて、TVドキュメンタリーを拝聴した時には、彫刻の素材として様々な木を試し、クスノキが一番しっくりくると話されていた。黙々と作品を製作し続けるなか、自身に降りてきた言葉をその都度紙に書きとめていく。その仕事ぶりは彫刻家というよりは哲学者のようであった。

 舟越桂さんの父、舟越保武氏も著名な彫刻家である。作品も数多くあるが、筆者は長崎で目にした、日本二十六聖人殉教者記念碑が思い出深い。舟越親子の作品に荘厳さと静かな温かさが感じられるのは、父保武氏がカトリック信者で、キリスト教信仰やキリシタンの受難に関する作品を多く手掛けてきたことが大きいように思われる。

 舟越桂さんは子供向けワークショップにも力を入れていた。自身の作品(人間の半身像)の写真に、漫画にあるような吹き出し部分をつけ、「この人は何をしゃべっているのでしょう。話している内容を書きこんでください!」といった類の課題を出していた。

 子供達は作品から受けるインスピレーションと自身の感性から言葉を紡ぎ、作品を仕上げていく。できあがったものはパネル一面にまとめて貼られ、新たな鑑賞対象となる。子供達の感性の違いに改めて驚かされることもあった。

 確かに芸術作品は完成した時点ではその作家に所有権や著作権、著作者人格権が生じる。しかし、手を離れた先では作品は公器となって世の中の重要な財産ともなる。鑑賞者が作者の意図や作品の背後にある社会背景等について思索し互いに意見を交わし合うのは民主主義の健全な過程を作る上でも意味がある。

 かつて、岡本太郎氏が「政治、経済、芸術(美と人間性)の三権分立が大事だ」と主張していた意味が今では少しわかるような気がする。

 もう20年以上経ったのだろうか。以前、木場にある東京都現代美術館内で、偶々舟越桂さんに遭遇する機会があった。ファンの一人としては声を掛けたかったが、美術館スタッフと会話しながら通路を歩いておられたので控えた。

 当時購入した個展の図録で作品を回想しながら、静寂のもと思索を続けることの大切さを改めて感じる。TVやネットではジャンキーな情報で溢れ、大切なものがなかなか見いだせない。株価は上がったが多くの庶民の可処分所得は増えず生活は苦しいままである。今年に入って四分の一が過ぎたが、国会ではただの一私的結社にすぎない与党政党の裏金疑惑で時間を浪費した。被災地の復旧やこの国の将来ビジョンへのきめ細かな討論が十分に展開されない。

 そんななかで、また政党交付金が疑惑の与党に支払われようとしている。これは果たして生き銭といえるのだろうか。若年女性や中高年男性の自殺も増えている。海外売春斡旋の事件なども増えてきている。人間性を損ねる事件を多く耳にするのはなぜなのか。人間の尊厳を取り戻すために何が必要なのか。

 舟越作品を眺めつつ、“平和で人間が人間らしく生きられる日本”をひとつの芸術作品とするならば、彫刻のしやすいクスノキの部分はどこで、私達はどのようなノミで、誰と繋がって彫り進めればよいのか。少しばかり熟考し、筆者は筆者の得意分野で自分のノミを持ち、彫り始めたいと思っている。