論 考

知性的でない事例

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 「わたしは、自分が知らないということを知っている」というソクラテス(前470~前399)の言葉がある。これは奥行きが深い言葉である。

 賢くなればなるほど、知るべきだが、知らないことがある、と考えるのではなかろうか。そうであれば、失言暴言の類やつまらぬ嫌がらせなどはしない。

 静岡県知事を辞任表明する羽目を招いたのは、川勝氏の非知性的発言が原因であって、誰かにはめられたのではない。

 知性たるものは、頭脳の知的な働き・知覚をもとに、それを認識にまで作り上げる心的機能とされる。

 たぶん、川勝氏は自分の頭がよろしいと確信しているのだろうが、とんちんかんな認識をし、さらに世間に対して発言するという行為は、頭がよろしいとも思えないし、世間が理解しないくらい高度に知性的だとも考えられない。だから非知性的だというしかない。

 岡口判事が弾劾裁判で罷免された。弁護士にも転身できない。朝日新聞は、裁判官自身の表現の自由があることに触れ、司法の独立性を国民自身が担保しなければならないと指摘する。

 大きくいえばそうなるが、岡口氏がSNSを使ってなした行為を、正面切って言論の自由問題に直結するのはしんどい。

 いったい、なにが主張したかったのか。岡口氏の弁明が見当たらないのでわからない。そうではあるが、わたしの常識からすると、これまた非知性的な事例にみえる。

 もちろん裁判官といえども普通の人間だから、直感的にあれこれ思い浮かぶだろう。しかし、SNSで見境なく日ごろのうっぷんを発散させる行為を、まして裁判官がおこなうというのは違和感が強い。

 かりに、それが小さな事柄であっても、なにやら愉快犯的所業に見えるのは、わたしだけではなかろう。人の行いを裁く司法の人が、オフタイムだから自由だというのもしっくりこない。

 まして、言論の自由だと居直れるような事柄にも思えない。(ただし、弁護士にも転身できないというのは罰の過剰感が強い。)

 このケースも、頭はよろしいのだろうが、知性的とはいえない。頭が良くても、それをいかに駆使するか。バカとハサミは使いようという言葉を拝借すれば、頭のよさとハサミは使いようである。

 自分は頭がわるいと悔しがったことはいくらでもあるが、知性を売り物にする自信はない。人は知性的だとうぬぼれた瞬間に、頭の使い方、知恵の出し方を誤るのではなかろうか。

 優等生のみなさまはくれぐれもご用心を。