論 考

いわば旧式思想

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 大学教授から2009年に静岡県知事に就任した川勝平太氏が、4期目途中で辞任の意向を表明した。つねづね失言が問題になってもいたが、最後の決め手は新職員に対する訓示である。

 「県庁はシンクタンクで、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものをつくったりということと違って、皆さま方は頭脳、知性の高い方です」

 川勝氏は報道が文章の一部を切り取ったと不満をいったが、言葉足らずというなら氏の知性程度が疑われるから、職員の知性を云々するほうがおかしい。

 やめると表明した人の足を引っ張るつもりはないが、氏の発言には見落とせない旧式思想が見える。昔ながらの官僚エリート主義である。これこそがよろしくないし、失言の背景である。

 県庁シンクタンク論がたとえ話としても、シンクタンクの意義が十分理解さているかどうかも疑問だ。しかも氏は教育研究界からの転身である。教育研究がものごとの現場や人を離れて進化するわけがないことくらい知っているだろう。

 頭脳や知性が上等でも、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものをつくったりできない。県民は、それらを生業としてくらしている。いったい、誰のための県政なのかと問いたくなる。本末転倒の論旨である。

 エリート主義のいちばん鼻持ちならぬことは、あたかも自分たちが世間を動かしているという大錯覚である。昔の、国家主義時代の、国家の名代としての県知事さまに頭が逆戻りしたらしい。

 いまは国家主義ではないし、民主主義であり、エリート主義はそもそも反民主主義的色彩が濃い。県職員は県民の支配者ではない。県民の支配をうけて働くのである。

 国家の代官であった県知事は、官僚国家のエリート官僚である。もちろん、自分が天下国家を背負っているという心がけをけしからんとはいわない。ただし、それは自分が万能の采配を揮う意味ではない。

 謙虚であれば、直接生産活動にかわらない官僚はお偉いさんではなく、社会(人々)にパラサイトしているのだから、なおさら、皆さまのお役に立つようにがんばらねばならない、と考えるのではなかろうか。

 政治をみれば、いかに国民の意識・生活とかけ離れた思考態度が蔓延しているか一目瞭然である。県政は、国政に対して毅然として発言できる存在でありたいし、その力の根源は県民の信託である。

 比較的ユニークな存在として見られていた川勝氏が、まさか、国家主義、官僚国家の代官のつもりだとは思いたくないが、発言がお粗末すぎるのと、全体をみれば似たような政治家(の思考と行動)が多いので、あえて一筆記した。