週刊RO通信

運命が扉を叩く音

NO.1553

 深夜、眠りから覚めてうとうとしていると、救急車が近づいてやがて遠のいていく音が聞こえた。格別珍しい出来事でもなく、眠っていて目が覚めるほどの音でもない。それに、毎日24時間に数回は聞こえるので、話題にもならないのであるが、ぼんやりした頭の中で、「運命はこのように扉を叩く」という言葉が浮かんだ。

 これは、ベートーヴェン(1770~1827)が、交響曲第5番ハ短調作品67の、有名な冒頭部分について質問されて答えたといわれている。もっとも、質問したアントン・シンドラーは、ベートーヴェンについていろいろ書き残したが、のちに事実の改ざんなどが発覚して、信頼性が疑われている。ただし、ベートーヴェンが語らなかったという確証もまたない。

 とくにわが国では、交響曲第5番ハ短調作品67と呼ぶよりも、『運命交響曲』の愛称がまちがいなく有名である。シンドラーが捏造したのであれば残念だが、いかにもふさわしい表現で、いろいろ考えさせられる。

 ベートーヴェンの人生は、若いころは飲んだくれの父親に、人生の後半では不出来の甥に悩まされ、苦労した。いまでいうヤングケアラーであった。28歳ごろから難聴が進み、1802年には思い余って自殺を考えたこともあった。その苦悩が、ハイリゲンシュタットの遺書として残されている。

 音が聞こえない作曲家というのは、素人が考えても致命的だと思われる。にもかかわらず、ベートーヴェンはその事態に苦悩することに別れを告げた。この遺書は、ベートーヴェンが新たなベートーヴェンとして出発するために書かれたように思う。

 難聴への絶望と、病気を克服したい意思は、対極にあって対立している。それを克服するのはなにか。芸術家としての運命(人生)を全うすることであった。それを生み出したのが遺書である。

 文章を拾ってみる。

 ――自分の生命を断つところまでほんの少しのところ—-それを引き留めたのはただ芸術だけであった。

 ――不幸な人間は、自分と同じ1人の不幸なものが、自然のあるいは障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい。

 ベートーヴェンは、自分が絶望の淵から立ち上がったのは、芸術家として生きることと、徳性ある人間になることの2つによってである。そして、徳性だけが人間を幸福にすると断言し、弟たちに、徳性ある人間をめざせと諭したのである。(ただし、遺書の発表はベートーヴェン死去の後)

 遺書は、後半に、次のような言葉が書かれている。

 ――(死が)来たいときにいつでも来るがいい。わたしは敢然と汝を迎えよう。

 ベートーヴェンは、26歳のときにはすでに、「正確さ、感性、趣味において傑出した作品を発表しており、偉大な天才である」との赫々たる評価を得ていた。しかし、難聴によって普通の人の生活の楽しみが得られず、人中に出るのを極力抑えていた。寂しく、切ないのは当然である。

 そうしたことが得られなくても、芸術家として、徳性ある人間として生きることは可能である。それが実現すれば、人々に芸術の素晴らしさを広め、苦悩を歓喜に変えられる。歓喜を手にするためには、自分らしく精一杯生きることだ。と、ベートーヴェンは思い至ったに違いない。

 前述のように、遺書の後半の部分で、「来るなら来てみろ」と挑戦するのはすでに死ぬための遺書を終わって、新たな人生に踏み出した決意であろう。

 それが交響曲第5番を貫く作曲家の精神だと思う。わたしの少ないクラシック鑑賞体験では、やはり交響曲第5番にもっとも親近感と共感をもつ。音楽には魔性が宿るともいうが、生きる活力を吹き込んでくれる音楽こそ聴くもの喜びである。

 こんなことを考えていると、ますます眠られない。また、ごそごそ起きだして、ベートーヴェンを聞きたくなる。それにしても、自分の扉を運命が叩いていると感じたことがないのは、なんともはや。