筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
被災された方々に応援カンパをするために、パーティを開くとする。
パーティに飲食は付き物である。主催者と参加者の関係は、いわば商品を販売する人と購入する人の関係であるから、パーティ券価格は、飲食内容と均衡していなければならない。
しかし、応援カンパが目的なので、いつものパーティ並みに飲食が中心とはいかない。主催者・参加者ともに、いかにたくさんカンパを集めるかが目的で、極論すれば飲食は最小限の形式にとどめたい。
ただし、パーティと銘打って、ただお金集めに奔走するのでは味気ないし、無粋であるから、暮らしは低く思いは高くというように、パーティの飲食が質素であっても、カンパを弾みたくなるように工夫するのが主催者の芸である。
参加者も、飲食が質素でも、カンパを弾むことによって、自他の心意気で楽しむのである。こういうのがパーティ倫理の事例である。
政治倫理審査会で議論すべき、核心は、政治家の「倫理」である。
政党主催のパーティが、前述のような目的に充てられるのであれば、おおいに上等、飲食内容が質素であって、パーティ収入を集めすぎであろうとも、だれも文句はつけない。
ところが、パーティ券売り上げは政党自身のためであり、荒稼ぎして各人がノルマ以上にパーティ券を販売すれば、ごほうびか、今後の動機付けかは知らぬが、キックバックなる裏金にしている。
「倫理」など出番がなく、儲かればいいという、無粋で不調法、政治家というより守銭奴そのものである。
2月29日の政倫審では、なぜ多額の裏金を作ったか、作らねばならないのかについてまったく進展がなかった。
岸田氏は、それなりに―政権維持に―必死な様子が滲んでいた。武田氏は、音声なしで見れば、倫理が問われている政治家の態度ではない。答弁内容は逃げの一手であった。態度は堂々としていたが、これ、巷では居直りという。粗にして野だが卑ではないという言葉を引用すれば、粗でも野でもないが、卑そのものである。不誠実である。
つまり、いずれも倫理問題とは無関係の態度であった。
攻める野党の皆さんも、「倫理とはなんぞや」という認識をもっと押し出さねばいけない。つまみ食いした盗人を責め立てるのでは次元が低い。
政治家が政治家として持ち合わせねばならない、そして、つねに拳拳服膺していなければならない倫理を持ち合わせているのか。ここに焦点を合わせてもらいたい。
まあ、政治家に倫理を求めるのは、木によりて魚を求めるようなものだと言ってしまえばそれまでであるが。もう少し様子を見ようか。