筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)
労働問題記者がいなくなった
1970年代まで新聞では、労働問題について、労働記者の切れ味良い論調が見られた。しかし、80年代後半にはきっちり低調になり、90年代半ば以降は、まるで昔の面影を失った。労働問題専門の記者がきれいさっぱり姿を消した。
おそらく、労働組合運動が活力を失い、世間が労働問題に対する関心を失ったからであろう。しかし、ジャーナリズムがわが国の民主主義の発展に深い関心をもっているならば、労働組合運動が活力を失おうとも、いや、そうであればなおさら労働問題研究と、報道に力を入れねばならない。
なぜなら、民主主義の盛衰は圧倒的多数の大衆の動向に左右される。大衆すなわち労働者であり、労働者が目的意識的に組織した労働組合の動向抜きには民主主義を考えられないからである。
会社の中が民主的でないのに、労働者が社会の民主主義事情に深い関心をもつとは考えられない。たとえば、パワハラに対して、労働者の反発が薄いような事情で、政治的権力者の横暴な発言・ふるまいに対して熱心に抗議するだろうか。もっとも身近なところで、民主主義の運営が課題にならないような意識状態では、民主主義が成長し発展するわけがなかろう。
かつて、労働組合は―日本の民主化・産業の民主化・企業の民主化、さらに職場の民主化―を大声疾呼した。それができていないのであれば、ジャーナリズムの出番である。ジャーナリズムは権力のウォッチドッグだという。労働組合もまた、労使関係を通じて、さらには社会的活動を通じて民主主義の発展に貢献する運動体なのであるから、それが有効に機能していなければ、ジャーナリズムは警鐘乱打するべきだ。そのために労働運動のたゆまぬ研究が不可欠である。
新聞が、春闘を季節ものとして報道するだけではいけない。春闘は交通事故ではない。大衆運動の一つの現象として、歴史的に継続して取り扱われねばならない。いまの春闘(賃金交渉)は、いわば戦後の飢餓賃金時代モデルから脱出できていない。組合が賃金要求して表面的に強い交渉(ストライキ)展開すればよいというものではない。
朝日新聞の記者解説のお粗末
2月19日朝日新聞(朝刊)に、記者解説「ストなき賃上げ交渉」なる記事が1ページ全面に掲載された。労働組合を応援する叱咤激励のためだろうが、論旨がお粗末なのが残念である。
要するに、ストライキは賃上げに効果があるが、いまの労働組合はストライキをやらないから十分な成果が出せない。その背景として、賃上げを強く要求しないし、1990年代から雇用優先で賃上げに力が入っていないとする。
これは外面的なことで、その程度であれば、たいがいの人が知っている。
90年代は、バブル崩壊後に危機感を抱いた経営者(財界・政府も)が、一斉に雇用削減=人件費コスト削減に走った。80年代バブルに浮かれていた労働組合は機敏な対応ができなかった。
バブル期間10年近く、組合員は賃金の基本を勉強せず、賃金は景気が良ければ上がるし、その逆であれば下がる―程度の見識しかもっていなかった。そこへ、経営者がバブル経営の責任をとらず、雇用削減で従業員に責任を転嫁した。
労働組合が反撃できなかったのは、70年代後半から、組合役員がほとんどくじ引き同様の選出になり、当然ながら、組合役員でございますといっても、基本的に必要な知識・体験を持ち合わさない。働く人とはいかなる存在か、という見識もない。
労使関係は、本来個別的(各人)であるが、個別では経営と対等の交渉ができない。そこで、団体的労使関係(労働組合と経営)を設定して、労使対等の交渉ができるようにした。
憲法第28条は、団結権・団体交渉権・団体行動権=労働三権を認めている。ところで同第21条に、結社の自由が掲げられている上に、団結権が認められた。これは、日本の労働者が敗戦まできわめて劣悪な無権利状態に置かれていたので、民主主義憲法においては、労働者=労働組合、大衆が民主主義発展を真に担うように期待を込めたものである。
労働組合の力は、組合員の力の総和であって、少数の執行部があらかじめ保有しているものではない。組合員(=労働者)の力は、どこから生まれるか。働く人としての見識・知識・行動力を勉強して身に着けるしかない。ところが、前述70年代後半からの事情であるから、組合員の力も組合役員の力もがた落ちになった。
朝日記者の解説なるものは、この本質的な労働組合事情を本気で顧慮せず、楽天的にも、ストライキ万能主義に走っている。これは、70年代までの労働組合では、活動家でもない、ごく普通の組合員がしばしば口にした程度の見識であって、ストライキを打てば勝利するというのは、単純素朴な感情論に過ぎない。
労働組合の活動は、組合員の要求に基づいて展開される。要求が強いほど、活動も強化される。ストライキとは、強い要求・活動の発露である。いまのように、連合の要求が産別段階の合意となり、それが各組合に下ろされて、組合員のさしたる論議もなく要求として決定されるような事情が、強い要求とは言えないし、強い交渉が展開される可能性は少ない。
強い交渉の手立てとしてストライキをおこなうのであるが、組合員自身の強い要求がない状態において、ストライキに突っ込もうというのは小児病である。記者は、いまの組合員はストライキ経験がないというが、実は記者も体験がないはずである。
ストライキは、労働組合と組合員にとって、いわば諸刃の剣である。あるいは、肉を切らせて骨を断つ戦術である。働く人が仕事を拒否することは、働く人としての存在理由を断つことである。働かなければ生活の糧を獲得できないからである。ストライキが労働者にとって万能の武器であるならば、労使関係において労働者はもっと優位に立てる。働かないことが大変だから、労働組合はこの間、雇用第一に展開してきたわけだ。
経営側には雇わない自由があるが、労働者側には働かない自由はない。だからこそ、労働者は労働組合を組織して経営側と労使対等をめざしてきた。
簡単なまとめ
朝日記事のお粗末を批判するのが目的ではない。ストライキをお手軽に考えるようなことのないように注意喚起した。
わたしは、賃金交渉で多くのストライキを経験した。当時、組合員の合言葉は、「たとえ1円のためでもストライキに入ったら打ち抜く」というものだ。いささか精神主義的ではあるが、ストライキをひとことで表現すればこうなる。
つまり、それが意味するのは、組合員要求が徹底的に強いことである。ストライキは目的ではない。目的は、賃金に限らず要求獲得である。その目的にふさわしい手段として駆使されるとき、ストライキは労働組合=組合員にとって、最大の武器となる。
水をかけるつもりではないが、過去のストライキの真実は、ストライキを打っても、目的達成に至らなかったほうが多いだろう。にもかかわらず、という場合にストライキが輝いたのである。