論 考

裏金止めたら自民党が消える

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

世間との認識の違い

 自民党が議員の裏金調査に乗り出したはずが、最近5年間の収支報告書の記載漏れのアリやナシや、その場合の金額という2点のみであることがわかった。野党は議員の関与を自己申告させて、金額・使途をリスト化するべしと要求しているので、こんなのはやるやる詐欺だと怒っている。実際、岸田氏の答弁を聞いても、やる気があるのかどうか。「自民党存亡の危機」というにしては、誰が見てもサポタージユ、時間稼ぎである。

 実は、岸田氏は珍しく本音を吐いた。それが「自民党存亡の危機」である。メディアも、どなたさまも、ならば本気で政治改革せよという流れになるが、岸田発言を取り違えている。補足すれば、(裏金問題を止めることは)「自民党存亡の危機」だと発言している。世間の見方と岸田氏らの取り組みとは正反対になる。

 なぜそのような展開になるのか。自民党諸君は、絶対に裏金とは考えていないからである。その代表格が安倍派五人衆であって、まったく認識が異なるから世間的反省など眼中にない。むしろ、世間の物分かりの悪さを嘆きつつ、殉教者気取りでいるのであろう。

 この認識の違いが、そのまま日本的政治についての認識の違いになっている。

反省しない理由

 自民党議員は自前の秘書をたくさん抱えている。その本音の核心は、万全の選挙対策にあるが、必ずしもそればかりとは断言できない。つまり、秘書を1人でも多く抱えることが、人々のご意見や苦情を聞くことに直結していると考えている。

 700年以上昔の封建時代から、庶民は、政治を決定的に嫌った。泣く子と地頭には勝てぬという言葉は、79年前の敗戦まで完全に生きていた。政治といえば、税金増額・労働の供出、さらには戦争に狩り出される。しかも文句がいえない。唯々諾々、嬉々として政治の命ずるままに行動せねばならない。だから、庶民にとって政治は最大の敬遠の対象であった。

 戦後、戦前保守政治の系譜に立つ政治家が直面したのは、敬遠される政治ではいけない。強面で押し付けるのではなく、民主主義だから、全員参加とまではいかなくても、政治を身近に感じてもらわねばならない。

 尾崎咢堂(1858~1954)は後に憲政の神様と称されたが、民主主義憲法の審議に当たって、「このような立派な憲法を手にする以上、議員たるもの、ひな壇に座って(高みの見物して)いるようであってはなりませぬ」と演説した。皮肉ではあるが、政治を身近に感じてもらうためには、従来のような権力・権威主義ではいかんと戒めた。

 五人衆らがかかる歴史的観点を十分理解しているかどうかは知らないが、自民党は、体質的に国家主義、権力・権威主義を抱えながらも、民主的政党たろうというポーズをとり続けてきた。ただ、体質が体質であるから、人々が「参加する民主主義」という根本的発想がない。よくいえば、御用聞き精神で、「皆さまのご意見を政治に反映させます」として、自分たちを売り込んだ。

 人々のご意見を聞くには、耳をたくさん持たねばならぬ。それが秘書である。たくさん秘書を抱えるためにはおカネが欲しい。自民党諸君が、民主主義にはコストがかかると語る場合、まず、議員としての自分の立場を表明している。

 もちろん、秘書だけでは御用聞きを果たせない。あるいは、こちらからお願いしたいことも多い。さらに、シンパサイザーを増やさねばならない。秘書におカネを注ぎ込んでいて、シンパにはタダとはいかない。人様になにかを頼む場合にはお礼が必要だ。どんな形で支払うかはともかく、これまた、民主主義にはコストがかかるという話である。

 自民党的民主主義は、おおきくいえば、前述のような次第で、おカネが不可欠である。おカネというものは、あればあるほどよろしい。議員個人の体面もあるから、上限というものは存在しない。資本主義が利潤を追求し続けるのと、自民党議員がおカネを追求し続けるのはとてもよく似ている。すなわち、自民党の民主主義は、資本主義と表裏一体である。自民党的資本主義といおう。

 こんな事情で、自民諸君にすれば、裏金なんてものは存在しない。自民党的資本主義的利潤である。だから裏金と指摘されると反発する。お金儲けがうまいことが資本主義の条件である。同様、お金儲けがうまいことが自民党的資本主義的民主主義の条件であり、大物政治家の条件である。

 先輩たちがやってきたことを表面的に受け継いできた世襲議員が多いから、このあたりの事情を人々にわかるように説得できる理論を持たない。

なぜ野党の支持率が上がらないか

 自民党・岸田内閣の支持率は当然ながら下がる一方である。与野党の支持率をゼロサム関係と考えれば、嫌でも野党の支持率が上がるはずだが、まったく無関係に野党支持率は上がらない。庶民は怒っているのではないのか。

 もちろん庶民は非常に怒っている。最近の京都市長選、前橋市長選でも明らかに裏金効果が表れた。京都も前橋も古い都である。京都はかつて蜷川府政時代があったが、前橋は伝統的保守一辺倒できたから、だいぶ賑やかになった。この風潮がやがて来る総選挙まで持続するかどうかはわからない。

 そこで、自民党に対して怒っても、野党の支持率が上がらない理由について考えてみる。

 実際、自民党とおカネの問題は、戦後一貫してつねに騒動を巻き起こしているが、野党が政権を獲得しにくい、なにかがある。

 ひいき目でもなんでもないが、議員個人を比較してみると、決して野党が見劣りしない。というよりも、真面目さ、理論家としての品位・力量は野党議員のほうが優れている。(ただ、維新の会については保留する)野党が頼りないという批判はわかるが、自民党が官僚システムに乗っかり、あるいは、メディア報道の均衡から考えると、野党は相当損をしている。

 わたしは、そのような外面的視点ではなく、ふだん意識されていないように見える内面的視点について考えた。

 自民党が戦後長年にわたって政権を担ってきた最大の理由は、その「いい加減さ」や、人々に対する「無介入」の態度ではなかろうか。戦前のように、権力・権威を絶対的に振り回さず、人々の生活に介入しない。(ただし、1990年代あたりから、以前に比べると私生活面への介入が目立つが、人々にそのような理解をされていない。)

 たとえば、日本国の上に日米安全保障条約があるかのような、いい加減さ。自民党が保守で、安倍派などたくさんの右翼国粋主義者を抱えているのに、アメリカだけは別格扱いである。敗戦直後、いかにしてアメリカ(GHQ)支配を避けるかに腐心した時代と比べれば、占領時代へ逆戻りしたような主体性・自立性のなさを痛感する。

 それでいて、アメリカのお先棒担いで世界的リーダーシップの発揮などと帳尻合わせするのだから、漫画的である。

 しかし、これも人々への不介入という視点からすると理屈が合う。かつて一貫して、日米安保には反対がありつつも、廃棄してしまえという機運は、もう一つ盛り上がらなかった。

 深読みすると、安保はいらないが、防衛費が相対的に安くて都合がよい。日本国憲法に違反するところが少なくないが、まあ、実際に戦争することもないだろう。軍国主義が台頭して不自由な思いをしないで済めば上等だ。というような、個人に対する国家権力の不介入歓迎論である。

 そして、安保廃棄すれば重武装独立論で、うっとうしいことになりそうだから嫌だ。というあたりが、ひとびとの気風ではないだろうか。

 昨今は、予想以上に重武装へと走り、きな臭さが感じられるので、人々は戸惑いを感じているだろうが、従来は、国家を感じさせない自民党的政治が歓迎されてきたといえる。

 これを変えたのが安倍政治であり、それに追従する岸田政治である。しかし、岸田氏は、安倍氏がやろうとしても、なかなかやれなかったことを自分が推進して手柄にするという意欲が見え見えである。国家100年の大計など、まったく浮かんでこない。マイ・ウェイなのだ。

 安倍氏が右翼的確信犯でありながら、それなりに逡巡していたのに比較すると、岸田氏は闇雲、無鉄砲に突進する。これが、結果として従来自民党の不介入路線と異なりつつあるが、本人も人々もきちっと理解しているかどうかは怪しい。人々の政治参加とは、このような大所高所における意思表示であるが。

 野党は、自民党よりはるかに理論的である。それは、「いい加減」のアンチテーゼであるから、傍目にはなにやら窮屈な感じがする。野党が自民党との違いを目立たせようとすればするほど、その窮屈感が高まる。これはきわめて感性的表現であるが、人々にとって理論を通して介入してくるような否定感が出ている。

 つまり、戦後自民党政治の「いい加減」「不介入」に長い年月をかけて慣れてしまった人々には、怒りつつも容易に自民党離れができないのである。

 その点、自民党が政権復帰してから、安倍氏が民主党政権を悪夢であったとして叩いたのは、人々の無意識の意識に働きかける意味で、相当の効果を発揮したと思われる。常識的には、安倍氏はむちゃくちゃをやったが、その「感性」が、長期政権の理由だった。

 また、自民党が意固地に共産党を拒絶するのは、「いい加減」の反対であり、その理論が人々を精神的に縛るからであり、もっとも反自民党の位置にあるからだ。

 自民党を「いい加減」だと指摘したが、それは、かつて池田勇人が「寛容と忍耐」を打ち出し、60年安保と三池争議によって険しくなった人々の意識を懐柔しようとした戦後の「中興の祖的」仕事によって再編成されたものである。

 安倍氏が右翼国粋主義、岸田氏が闇雲・無鉄砲によって、戦後の自民党らしさを破壊してきた。その意味では、戦後レジームの転換といえる。

 国民たる人々には、まだ、それに対応する意識が芽生えていないのか。芽生えて、ある日突然、オセロゲームをやってのけるのか。目下はわからない。

 一つだけいうべきは、民主主義における主人公は、人々一人ひとりである。この単純なセオリーが本当に浸透するのかどうか。岸田的路線を看破できないうちは、いかんともしがたい。