くらす発見

苦学力行の弱点

筆者・難波武(なんば・たけし)

 苦学力行の人なんて言葉は最近聞かないが、半世紀前くらいまでは、職場の一角に輝いておられた。もちろん、誰も口に出して取り沙汰するのではないが、それとなく畏敬の視線を向けたものである。

 わたしの記憶に残る1人は、北海道の開拓村の貧しい家庭に生まれて、ろくに暖房もなく照明も裸電球で勉学に励み国立大学を優秀な成績で卒業した。職場ではジャンジャン新境地を開拓しておられた。

 ただし人気が低かった。部下に厳しい。自分はどんな困難にでもぶち当たってきた、という自負がストレートに出てしまう。

 いまどきの表現をすれば、働き方の改革なんて無関心で、ただ一直線に自分の仕事をやっつけろというわけだ。

 キッシンジャー氏が亡くなった記事を読みながら、ふと、昔のことが思い出された。同氏も、ユダヤ迫害を逃れて渡米し、苦学力行の末に政治権力の一角に上り詰めた。同氏の毀誉褒貶は相半ばするが、批判の声はかなり大きい。

 それを集約すると、キッシンジャー的リアリズム外交は、力の均衡論だというが、要するにアメリカの利益が第一であり、アメリカの力を最大限駆使するものであったから、帝国主義外交と同じである。

 もちろん、こんにちのアメリカを軸とする外交がすべてキッシンジャーの責任に帰するなどというつもりはないが、自国第一主義の均衡論であって、国際関係を進歩させようという意図がなかった。派手ではあっても、時間が過ぎれば、また同じ問題が頭をもたげる。

 苦学力行の人はおおいに評価されるのだが、自分が過ごしてきた体制的枠組みに関心が向かわず、枠組みのなかだけで活動してしまう傾向が強いのかもしれない。同氏は、世界の枠組みを「憎悪」と「暴力」が支配していると考えていたのではないか。

 ここから思考が一歩も出ないのであれば、本当に歴史的な仕事をこなしたとはいえない。