月刊ライフビジョン | 家元登場

同情を共有

奥井 禮喜

真昼の怪談

 なぜなのか、さっぱりわからない事態が発生した。自分では格別不規則作業をしたつもりがないのに、アウトルックが突如つながらなくなった。幸い直ちに技術者に来てもらって、メール回線は開通した。しかし名簿が壊れている。修復不可能、少し古いがバックアップしてあったのと、もう1つ、名簿をプリンターで印刷したものとを使って、修復作業開始だ。印刷したものはバックアップより内容が新しい。以前は、割合ひんぱんにデータ改定していたが、しばらくサボっていたのが残念。油断大敵、役立たずの後悔で、この際、あまり原因追及やショックの傷口に触らないことにした。昔、ワープロでやっと仕上げた1万字の原稿を、弾みできれいさっぱり消したことがある。記憶鮮明なうちに再生だと気合を入れて、予想外に早く書き上げた。名簿の作業は自前の原稿の調子ではいけない。焦っても仕方がない。着実に堅実にやっている最中だ。それにしても、くたびれる。

爆弾仕掛け?

 やはりワープロ時代の話。どこかの大学の大先生が苦心して仕上げた原稿をきれいさっぱり消してしまった。悔しい。お弟子さんに向かってぼそぼそ苦渋を訴えた。お弟子さんが、いいことをお教えしますよ、というので胸膨らませていたら、「どこかに穴を掘って、思い切り穴に向かってバカヤローと叫ぶんです」。こういう慰め方(?)を、傷口に塩を塗るというのじゃないかな。塩を送ってほしい人に向かってこれをやったのでは、ユーモアどころか、嫌味の典型だ。その後、お弟子さんの運命がどうなったのか、わたしは知らない。ま、麗しいお仲間意識が養われている関係だったと考えれば、おもろい奴やという話だ。駆けつけてくれたプロは、「パソコンも某日突如、時限爆弾を仕掛けたかのようにアウトになるんですよね」と、きっちり素人向けに寒くなる話をしてくれた。連日の猛暑、真夏の会談でサービスするつもりだったのかな。慰めにも、笑い話にもなりませんが—–

穴に叫ぶ

 さてさて、失意の人を慰めるのは容易ではない。慰めることと、問題解決は等しくないからである。いかに衷心よりお慰めしても、本人の関心が問題解決にある場合は逆効果になる。お体裁の恰好つけの偽善者だと思われる危険性もある。励ますのも難しい。うつ病で悩む人を激励して余計に追い込むケースにはぞっとする。わたしの若者時代には、問題を抱えた仲間に対して、「がんばれや」と声をかけるのは当たり前だった。励まされたほうも嫌味に感じたりはしなかった。そういえば、組合でガンバローの評判が悪くなったのは1970年代後半からだ。もちろん、なんでもかんでも肩肘張って突っ張ればいいのではない。問題は、がんばるべき対象・状況・目標が見つからない、見つけられないような――雰囲気があるかもしれない。これはまことに大問題、大課題である。社会全体が心地よい活力を失っているのではないか。穴に向かって叫ぶカラ元気もおろそかにはできない。

同情 ≠ カネ

 わが若者時代には、がんばれ、ガンバローという言葉に、意識せざる連帯感があったのだろう。激励するほうもされるほうも似たり寄ったりの境遇で、励ますほうが少し高いところから「ここまでおいで」と呼び掛けているのではない。その後、「同情するならカネをくれ」というドラマかなんかの台詞が流行った。嫌な気分になった。ものごとのカネの切れ目が縁の切れ目なんであって、これでは、同情という観念を人々が共有しなくなったみたいで寒気がした。東日本大震災で「がんばろう! ニッポン」というコピーが氾濫した。被災された方々同様にその他地域の人々ががんばることになったか。どうも違うようだ。所詮おカネでしょう、としゃべった政治家がいたが、本音そのもの。政治はもっぱらバラマキ作戦でしかない。政治の堕落腐敗は極まっている。同情を共有する社会を目指したい。それが共助である。――いつの間にか、名簿修復も峠を越えた。


奥井禮喜 有限会社ライフビジョン代表 経営労働評論家 週刊RO通信発行人

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